長居での出来事についてまた考える

長居公園の行政代執行から、月曜でちょうど一週間がすぎました。
この間、それに関連した記事に少なからぬTBをいただいたり、ブログで言及していただいたりしたのですが、ここではそのなかからriruhiさんの記事の内容に答える形で、少し考えていることを書いてみます。
http://d.hatena.ne.jp/riruhi/20070208


この記事は、感じていることや考えがすごく正確に、丁寧に書いてあると思います。
その全部に答える能力は自分にないと思いますが、答えられることだけ書きます。
はじめに、次の点。

でもね、体を張って抗議ってのは今の時代逆効果じゃないかとも思うんですよね。

もっとスマートにやれないのかなと。

後、もうちょっとマスコミ対策をしたほうがいいと思うのです。

はっきりいって見ていて絵面があんまり良くないです。


このへんのことなんですけど、ぼくの記事にも書いたように、今回の行動は芝居の形で抗議の意志を示そうということで、ひとまず実行されました。
その理由は、ぼくが思うところでは二つあったと思います。
ひとつには物理的、あるいは言葉による衝突という形ではなく、演劇という表現をとおして相手(行政側の人たち、また見つめていた住民やマスコミの人たちにも)に気持ちを「伝える」ということに力点を置いたということ。
もうひとつは、マスコミにどう報じられるかという問題があった。これがまあ、「絵面」ということにも関係しますね。これまでの経験から、マスコミが問題の根幹に関わるような取材や報道もなしに暴力的な衝突の場面だけをセンセーショナルに報じることで、事柄が消費され、野宿者や支援運動についてのネガティブなイメージだけが流布されるということへの警戒感が強くあった。そうならず、なぜこういう問題が起こり、抗議や抵抗が起きるのかという根本的なことを多くの人に考えてもらうためには、従来のような「衝突」「対決」一辺倒のやり方でなく、演劇という新しい手法に訴える必要があったのだと思います。


それで、こういう手法をとったのだと思うのですが、ところがその日のテレビ報道などでは、やはり衝突の場面だけが報じられてしまった。こうなったのには、ひとつには次のような事情がありました。
たとえ演劇による抗議ということを実行しても、その後で実力衝突のような形になれば、マスコミはその衝突場面しか報じないだろうという予測は、支援者の側にありました。なので、実をいうと前夜の打ち合わせでは、演劇の上演が終わったら、衝突を回避する形で全員が即時撤収するということになっていた。ところが、支援側が予想していたよりも早く行政側がテントの撤去に着手しはじめたために混乱が生じ、結論だけいうと、報道されたような「シュプレヒコールの連呼」や「座り込みの実力排除」という典型的な画像が報道される展開になってしまった。


だから、事前のプランとしては、芝居のみを演じて、対立や衝突の場面はほとんどなしに、行動を終えるということになってたわけです。
これは、完全な非暴力の抵抗ということになるけど、ただぼくが思うには、これは「実力による抵抗」みたいなものの意味や不可避さを否定してるわけじゃなくて、やはり「報道」の恣意性みたいな要素も考えたときに、一番伝えたいメッセージを有効に多くの人に伝えるにはどうしたらいいかという、戦略的な考えみたいなものがあったと思う。
そういう「伝える」ための努力みたいなものは、今回多くなされたのだということ、これは書いておきたいと思います。

できることといったら、実態を多くの人たちに知ってもらうことなんでしょうが、WEB上で見ている限りお互い対立を煽るばかりで建設的な議論にすすまないんですよね・・・


こういう実情を踏まえたうえでの取り組みだった、ということですよね。


それから、公園にテントを張って住むということの捉え方なんですが、これは支援してる人のなかでも、いろいろ考えが分かれてると思います。
行政による自立支援をどう考えるかということとか、コミュニティについての問題とか、いろいろ難しい論点があるのだろうと思います。それは、ここでは論じにくい。
ただ、とくに大阪市の行政においては、施設の不十分さの問題などもあり、現状では公園にテントを張って住むことが野宿者が生きていくためのやむをえない選択肢になっている、ということについては大体支援者の間では意見が一致ししてるんじゃないかと思います。
ただ、

あと、最後に残った9人じゃない人たちは退去して施設に入ったり生活保護をもらったりしてるわけですよね。
じゃあなんでこの9人は同じように出来ないんだというのを説明しないと駄目なんじゃないでしょうかね?


この点についていうと、たしかに退去に応じた人たちのなかに、進んでそうした人がいた可能性は否定できないでしょう。
でも、やっぱり行政の人から、強い態度で「退去」や施設入りを求められれば、「嫌々ながらも応じる」というのは、普通にありうることではないでしょうか。
つまりそれは、「強制」になっているということで、最後に残った9人がそれを拒んだということは、「同じように出来なかった」として非難される筋合いのことではないように思います。
そうすることを「エゴだ」と批判されれば、ぼくには答えにくいけれども。
ただ、これはそんなに許されないようなエゴなのか、ということは思います。


公園に住む野宿者に対する、またとくに今回のような行動に対してのバッシングの底には、非野宿者の人たちの「自分たちはこんなに我慢しているのに、なんであいつらだけ我儘が許されるんだ」といった感情があるように感じます。
しかし、基本的には野宿してる人たちは、その日を生きるためにぎりぎりの状況を強いられています。公園から追い出されたら、施設に一定期間はいられても、いずれ路上にダンボールを敷いて寝るような、死と隣り合わせの日々に直面することになるでしょう。
それを、「我儘」や「エゴ」という言葉で批判するのは、違うんじゃないかなあと思います。


むしろ、非野宿者の側の「自分たちはこんなに我慢してるのに」という、その我慢してるという感情が、野宿者のような他人に対する、また自分自身の生に対する攻撃性のようなものを生み出しているのではないかと感じられます。
それなら、その「我慢」ということが持つ自他への暴力性みたいなものが、もっと批判的に考えられていいのではないか。
悪い意味での「我慢」をしない生き方の大事さを、ぼくたちは学ぶべきではないかとも思います。