何も出来ないわけではない私

はじめに、既にお読みになった方も多いと思うが、生田武志さんのホームページで、先ごろ公表された厚生労働省による「ホームレスの実態に関する全国調査報告書」のことが言及されていた。
生田さんたち支援者の声に取材した産経新聞の記事の転載だが、読んでみて「なるほど、やはりそうか」と思う内容である。
「景気回復でホームレスが減少した」といった見方は、表面しか見てないということだろう。


さて、ところで、ぼくはこのブログに、大阪市での行政代執行のことをはじめ、野宿者の問題についても時々記事を書いたり情報を流したりしているが、これも何度も書いてるように、自分自身が「夜回り」などの日常的な「支援」のようなことに関わったことはないのである。



これは、なぜ今までそういうことをしてこなかったかということは、明言できる理由のようなものはないのだが、ともかく今まで一度もそういうことはしたことがない。
ただ、よく言われるような、「日本のホームレスは生死に関わる状況に置かれているわけではなく、贅沢な身分だ」などということはまったくなく、野宿生活におちいるということは、死と隣りあわせといってよい過酷な状況で生を生きることであるという認識はあるので、上記のような直接的・日常的な支援を自分もやるべきであるとは思っているのである。
しかし、実際にはしたことがない。「しない」のか「できない」のかはともかく、事実としてしたことがないわけだ。


ここで大事な点は、ぼくは「した方がいいに決まっている」と思っている、ということだ。
しかし、上記のような直接的な支援をやらないので、その代わりにというか、間接的に何かできることをやろうと思う。こうして野宿問題についての記事を書いたりしてるのも、そのひとつだし、他にもカンパするとか、イベントのようなときに行ってみるとか、そういうことに関する本を読むとか、講演会や学習会に行くとか、それからその事を時々気にかけるとか、直接支援してる人に助言したり助力したりするとか、そういう些細な「できること」は色々あるだろう。
ここでまず言いたいことは、間接的な、些細なことであっても、「何もやらないよりはマシである」ということだ。


直接的になにかをやることと、間接的に何かをやることとを比較して、後者の方が優れているということは、基本的にはないと思う。
どれだけ失敗や行き過ぎや、混乱があったとしても、直接に何かをやるということには、他には代えられない、他によっては乗り越えられない特別な意味がある。
これは、「直接的に」ということが、その人の実存に関わることだからだろう。その意味では、「ベタ」を乗り越えられるような「メタ」などないのだ。
自分の実存に関わっていれば、ただちに他人を支援することにつながるかというのは、難しいところだが、ここで考えているような直接的な支援は、幾分か自分の実存に関わる行為にならざるをえないだろう。「自分の実存に関わる」ということは、直接的な支援を継続的に実行することの必要条件にはなると思う。
そこで、自分がそうするべきだと思っていることを直接的にできない場合、人は、自分がそれをできないということを否認しようとする。
「間接的にやる」ということは、その否認の一形式にもなりうる。「多様な関わり方がありうるのであって、そういう全体を見ないで闇雲に直接行動だけに走るのは、かえって問題解決を困難にする」というふうな物言いである。
これは、一種の詭弁だと思う。


だから、間接的になにかをやるという人は、同時に直接的にも行うことが正しいに決まっているのである。
だが、ここで大事なことは、だからといって、間接的にしかできないということ、つまりたいしたことができないという自己意識は、「何もしないこと」を正当化するものではありえない、ということだ。
間接的に何かをするということは、何もしないということとはまったく違うし、それは直接的に行うことを代替することはできないけれども、実存を側面から支えるような別の意味で、何らかの「力」でありうるのかもしれない。


まあ実際には、このようにウダウダとやっていれば、そのうち自分にも何か直接的な行いができるかもしれない、ということなのだが。
それに、上に書いたことと少し矛盾するようだが、間接的なことのつもりが、どこかで直接的なことの次元に移行してしまっているという可能性も、ないわけではない。


ところで、「間接的にやる」ことのなかにも色々ある。
たとえば、野宿問題を解決するための法案を作成することも、上に書いたような意味での直接的な支援活動からみれば、「間接的」ということになる。億万長者が一億円を寄付するのもそうかもしれない。
一方、われわれがそうした問題を、ただ気にかけるとか、考えたり勉強したりするとか、イベントに行くとか、ブログに何か書くとか、新聞に投稿するとか、身近な誰かと語り合うとか、そういったことは間接的であると同時に、ほんとうに、些細な、微力なことである。
そして、ぼくが関心のあるのは、もちろんそういう意味での「間接的な行為」である。
そうしたことは、直接的な行動から見れば、本当に微力なのである。それは、いま死に瀕している人を救うという実効性から見ても微力だし、生きている人間としての自分の実存から考えても微力だし、自分が出来ることの総体から考えても、また社会がなしうることの全体から考えても、はっきりと微力だ。量的な問題だけでなく、本質的でないという意味でも微力なのである。
だが、それが微力であるからといって、そのことをしないでおくべきだ、ということにはならない。繰り返しになるが、「何もしない」よりはずっとマシなのである。
どうしてそう言えるのか?


ぼくが言いたいのは、これらの行為は、「悪としても微力だ」ということである。
それは、決して直接的な行為が転化するかもしれない「悪」に比べて言うわけではない。
「何もしないこと」によってもたらされる悪、すなわち、実際に困窮している人々の存在を無視したくはないという自分の内心からの要請を押さえ込むことによって、人々が、「直接的に行動している他人」(支援者)と、その他人のなかに映し出されている自分の実存的な(他人の生死に深く関わろうとする)姿を嫌悪し、やがて憎むようになるという、ある意味で社会的に構成された悪の巨大さ、堅牢さに対比して、「微力」という言葉を使うのだ。


ささやかな間接的な行動など、微力というよりも無力だ、いや、現実の社会の構造を考えるなら、それはむしろマイナスの効果さえもたらす、といった言説がある。
つまり、「何もしない」ことの方が、困窮した人々を救うにはマシなのだ、という考え方さえあり、そうした考えを人々が内面化していく可能性がある。
こうした状況によってもたらされる、間接的にしか行動しない人と、直接的に行動する人との、より本質的には、ある人の実存的・社会的な存在の相と、同じ人の、それとはややずれた「間接的」な生の相との、構成される乖離こそが、もっとも重大な隔たりであり、悪なのである。