怨恨の政治学

きのうのエントリーへの補足。
きのう書いたこととは逆の考え方になると思うが。


怒りと憎しみとが完全に分離できないことを前提として考えると、「憎しみ」(ルサンチマン)という、組織されてない非理性的な要素を、「怒り」の形成のために切捨てることは、かえってよくないことではないか、という気がする。
感情の力のすべてを、「社会が悪い」という構造的な認識のもとへと回収し、「政治的」な力へ組織するということには、たぶん無理があるのだ。
むしろ、「憎しみ」が有している各自の卑小な怨恨のようなものを無理に切捨てず、それとはまったく別の次元で「怒り」による連帯(政治化)を組織する方法を探ったほうがいいのではないだろうか。
つまり、「怨恨の政治学」。


それは、他人と同じ目的のために「小異を捨てて」合流し連帯するということではなく、否定しあい傷つけあう「小異」を残したまま「共に在る」ことを探るという方向だ。
「共生」でなく、「共在」。
衝突や誤解や軋轢、不透明な他人に傷つけられ、あるいは傷つけるという「恐怖」にもかかわらず、とにかく生きる場を共有するという態度。
このとき、「憎しみ」(怨恨)の次元は、理性によって否定(統合)されることなく、むしろ「怒り」(理性)にむかって不断に現実的な力(差異)を送りつづける。
二つの次元は、まったく解離し、個人を引き裂きながら、非持続的な連帯の場をその都度形成する。


たとえばゲーテッド・コミュニティは、他人への無関心や恐怖の現実化というだけではなく、他人との傷つけあいを回避しようとする、人間の弱さや優しさの現われでもあると思う。
カントが「啓蒙とは何か」を書いたとき、たぶん、そういう人間の優しさをどう乗り越えるかがテーマだった。


他人に傷つけられる恐怖ばかりでなく、むしろ自分が他人を深く傷つけてしまうかもしれない恐怖を克服して、「共に在る」意欲を、あるいは意志を持つべきなのだとおもう。


そのためには、つまり「恐怖とともに生きる」には、やはりある種の「解離」が必要だ。
その意味の「壁」は、誰もが自分自身の内部に、そして自分と共同体の「仲間」たちとの間に、築く必要があるのだろう。
他者へと開かれるための、いわば「友愛の壁」。


この「壁」によって、「怒り」の次元と「憎しみ」の次元とは隔てられ、隔てられることによって互いに生き延びながら連結する。
そういう他人との関わり方の作法、そして世界に対する共同的な力の行使の仕方を、共に磨きあげていくこと。
それをかりに「怨恨の政治学」と呼んでみたいのだ。