無償化という欺瞞

28日に京都で行われたこの抗議集会とデモに行ったので、そのことを書こうかと思ったけど、下の記事を読んだら、これも大事なことが書いてあると思ったので、そちらを少し書いておきたい。


高校無償化は負担増 フリースクール定時制の親ら訴え
http://www.asahi.com/politics/update/0329/TKY201003280332.html

鳩山政権の目玉施策「高校無償化」は月内にも法案が成立する。しかし、不登校の生徒らが通うフリースクールには適用されず、授業料が安い定時制や特別支援学校なども恩恵が乏しい。無償化の財源として税の優遇措置が縮小されたため、逆に税負担の方が重くなるケースが多くなりそうだ。学びを幅広く支援するための制度が、逆に困難の中で勉強している生徒の家庭に負担を強いる形になっている。

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眩暈がするほどひどい

夜明け前にこの件の「先送り」についての記事を書いたけど、直後にもうこんな情報が流れてたんだよな。
そして、法案そのものはすでに可決。


http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003110535.html

http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003110535_01.html

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義務と怠惰

前回の高嶺さんの個展の紹介記事のなかで書いた、雑誌「ビッグイシュー」の1月発売の号、135号だが、そこに掲載されている「世界の当事者」になるという連載コラムの中で、雨宮処凛さんが、こういうことを書いていた。

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サルトルと私と労働

存在と無』(ちくま学芸文庫)を読んでたら、こんなところがあった。

朝、鳴る目ざまし時計は、私の可能性たる私の仕事に、出かけていく可能性を指し示す。けれども、目ざまし時計の呼びかけを、呼びかけとしてとらえることは、起き上がることである。それゆえ、起き上がる行為そのものが安心を得させてくれる。なぜなら起き上がる行為は《仕事は私の可能性であるか?》といったような問いを免除してくれるからである。したがって、起き上がる行為は、クイエチスム(静寂主義)や、仕事の拒否や、ついには世界の拒否や、死などの可能性を、とらえる余裕を私に与えないからである。要するに、目ざまし時計の音の意味をとらえることが、その呼びかけに応じてすでに起き上がっていることであるかぎりにおいて、この把握は、目ざまし時計の音にその要求を付与するのは私でありしかもただ私だけである、という不安な直観から、私をまもってくれる。同様に、日常的な道徳とでも名づけることのできるものは、倫理的不安とあい容れない。私が諸価値に対する私の根原的な関係において私を見つめるとき、そこに倫理的不安がある。(?、p151〜152)

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不安定な職場を移動させられ続ける人々

ときどきテレビや新聞に、首を切られた派遣労働者が、警備の仕事や介護職など、人手が不足して困っているところに勤め口を見つけている、ということが報じられる。
これは、応急処置もいいところで、どう考えても問題の「解決」につながるような事態ではないはずだけど、何か「足りないところに人材が流れて、世の中うまく回ってますよ」みたいな報道のされ方になってるときがあり、あんまりだと思う。

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例の馬鹿な発言について

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090105-00000018-maip-soci

坂本哲志総務政務官は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、仕事と住まいを失った派遣労働者らを支援するために東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」に触れ、「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。そのうえで「(集まった人が)講堂を開けろ、もっといろんな人が出てこいと(言っていたのは)、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした」と続けた。


この件については、発言の前半部は国会でも問題とされ、本人も撤回謝罪して事を済ませようとしているようであるが、後半部の発言については、あまり問題にされてないように思う。
その点に言及しておきたい。

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