無償化という欺瞞

28日に京都で行われたこの抗議集会とデモに行ったので、そのことを書こうかと思ったけど、下の記事を読んだら、これも大事なことが書いてあると思ったので、そちらを少し書いておきたい。


高校無償化は負担増 フリースクール定時制の親ら訴え
http://www.asahi.com/politics/update/0329/TKY201003280332.html

鳩山政権の目玉施策「高校無償化」は月内にも法案が成立する。しかし、不登校の生徒らが通うフリースクールには適用されず、授業料が安い定時制や特別支援学校なども恩恵が乏しい。無償化の財源として税の優遇措置が縮小されたため、逆に税負担の方が重くなるケースが多くなりそうだ。学びを幅広く支援するための制度が、逆に困難の中で勉強している生徒の家庭に負担を強いる形になっている。

この記事を読んで分かることは、(朝鮮学校のことに限らず)文部科学省が認めない教育のあり方、子どもたちの育ち方の可能性が、この法案によって実質的に(控除の縮小によって)狭められることになりそうだ、 ということがひとつ。
もうひとつは、今の政権が言ってるような、教育にかかるコストを社会全体で負担していく、「みんな」で子どもたちの教育の費用を「公平」に分け持っていくといったプランが、相当欺瞞的なものらしい、ということだろう。


特に後者について言えば、社会のなかに富の偏在とか、貧困という問題が現実にあるのに、この「無償化」という方法は、それを再分配によって修正(是正)することを実は放棄している。
財源を、「特定扶養控除」の縮小というようなところに求めるから、貧困であったり、困難な状況で子どもに教育を受けさせてる親たちに経済的な負担(実質的増税)がのしかかることになる。
本当は、富が多くあるところから少ないところに移すという再分配を行うしかないのに、それをやると反発が大きいだろうから、「社会全体で負担を」とか「みんなで公平に」という言葉でお茶を濁して、その根本的な社会の歪みには手をつけずに、「みんなを無償化しますよ」と言って、実際にはその財源を貧しい人たちをさらに苦しい状況に追いやることで捻出するという、安手のトリックを使ってるのだ。
結局生じることは、貧しい人たちがさらに多くを負担させられることによって、富んでいる人たちに支給される(無償化される)分を支払わされる、という不条理である。


貧困の現実と、それを生じさせる社会の構造、その根本的な部分には決して手をつけないこと、つまりはこの社会にすでに常に存在してきた不平等や不正義の根を温存することを条件として、「無償化」というような一見万人に口当たりのいい理念を法案化していくこと、そのことによっていわば「不平等の衣装替え」を行うというのは、自民党政権の構造の「根本的な変革」を決して実行しえない(する気もない)民主党という政党の、まさに本質をなす部分だともいえよう。
そう考えると、朝鮮学校に対する差別が易々と法案のなかに組み込まれてしまったこの「無償化法案」の推移は、まったく理にかなったものだとさえ思えるのである。


「学びを幅広く支援するための制度」という場合の、その「幅広く」とは、現実の局所に存在する不平等と貧困の現実に手をつけない、その事柄はスキップする、という意味である。
なされるべきことは、常にすでにそこにある、差別や不平等や貧困の「くぼみ」に、財や政策を集中して、まずそれを埋めることであるはずだが、それを行うことは、この国の支配的なシステムを危うくすることだと思われてるのだろう。
その「くぼみ」をまず埋めよという叫びを消し去るための、いわば新たな平準化、水平化(キルケゴール)の方途として、この「普遍的な支給」(無償化)というリベラル的プランは提示されている。
この普遍性は、再分配による不正義と不平等の是正という根本を欠いているために、実際には反動と抑圧の具になっているのだ。


こうして、立場の弱い者、奪われてきた者ほど、「みんなの利益」のために多くの負担を増やされ、さらなる社会の辺境へと追いやられることになる。
言うまでもなく、朝鮮学校に通う子どもの保護者たちには、「控除もなければ、給付(無償化)もない」というありえない不当な現実が待ち受けているのである。