義務と怠惰

前回の高嶺さんの個展の紹介記事のなかで書いた、雑誌「ビッグイシュー」の1月発売の号、135号だが、そこに掲載されている「世界の当事者」になるという連載コラムの中で、雨宮処凛さんが、こういうことを書いていた。


大阪で行われたホームレス会議のなかで、ある当事者が路上生活におちいった原因として「ギャンブル」というものを挙げたとき、会場から寄せられたアンケートの中に「自己責任では」という意味の言葉が書かれていたというのだ。
雨宮さんは、それに関して、『私は「ホームレスになった」原因を問うこと自体に意味がないと思う。』と、書く。

もちろん、私も取材の現場では当然聞いているのだが、たとえば真面目に働いていたけど失業してホームレスになった人と、ギャンブルやアルコールの問題からホームレスになった人を「分けて」考えるのは、突きつめて考えると、とても怖いことだと思う。
なぜならそれは「支援に値する人」と「支援に値しない人」を選別して考える思想につながっていくと思うからだ。それを突きつめると、「生きるに値する人」と「値しない人」というような選別にもなっていく。


この言葉に、何も付け足すことはないと思うのだが、とても大事なことだと思うので自分なりに考えてみる。大事なことだというのは、このことについては、特に発言しなくてはいけない責任が自分にあると感じるからだ。
言えることは、ここで問われているのは、労働の価値の問題ではなくて、生命の価値、生存の問題だということである。
つまり、怠惰や依存の結果が「自己責任」だというなら、極端に言えば(私はもちろん支持しないが)それを罰するという考え方もあるだろう。例えば、生産が絶対に必要な状況で労働を拒否する人には、何らかのペナルティーを社会が下すことはあるだろう。
だが、それはその人たちの命を見殺しにすることを正当化するものではない。
問題になっているのは、この「見殺し」ということの非倫理性なのである。


私自身は、この社会で生きていくことにおいて、自分以外の人たちの生存を最低限保障する、そのように努力する義務があると、私は思う。
自分自身振り返って、とてもそのような努力をしていないことを申し訳なく思うが、あるべき方向としてはそうだと考えるし、そういう社会に私は住みたい。
それは、「自分のような怠け者は、そういう社会にならないと生きていけないだろう」という個人的な思惑とは違う次元のことなのである。
いや、そういう思惑も、それが切実なことなら、「或る(人の)生存の価値」の問題、そこからだけ他人たちの問題につながっていける起点のようなものとして、そこに関わっていていいとは思うが(それは大事なことなのだが)、やはり基本的には「他人の生存の確保のために何を主張し、行動するか」という義務的な問題だと思う。


そこで、もしこうした義務についての考えに同意しないという人があれば、当然ながらその人は、ある人が別の人を見殺しにすることを当然とする社会を構築したいと考えていることになろう。
そしてこのことは、労働についてどのような価値観を持つか、また個々の(目の前の)「怠け者」や「中毒者」をどのように感じ、どのように処するかということとは、別の次元のことのはずである。
つまり、「怠惰や依存が原因でホームレスになるような人は、自己責任だから支援しなくてよい(死んでもかまわない)」と言っている人は、その言葉によって自分の労働についての価値観を示しているのではなく、人間(とくに他人)の生存というものをどのように考え、どう責任をとっていくか(とらないか)という価値観、世界観を、そこで披瀝していることになっているのだ。
「自分は、そのような社会を支持する」と述べているのであり、救済しうる他人の死を見殺しにすることについて、何らかの責任を自らが負うことを宣言しているとも言える。
一言で言えば、この人は、怠惰な人やアルコールやギャンブルなどに依存するような人には、死という罰が与えられて当然だし、私はその処罰を明確に支持する、またそのような社会に自分が生きていくことを希望する、という言明をしているのである。


だが、普通そのことが明確に意識されていることは少ない。
「そんな人は自己責任だから(支援しなくていい)」という言葉が示しているのは、多くの場合、「私は他人の生存についての一切の責任を忌避したい」という願望なのである。
怠惰や依存が原因で困窮している人たちの死は、天災による死のように仕方のないものだから、自分がそういう人たちを見殺しにすることには責任がない。責任をとることではなく、責任を自覚し考えること自体を放棄し、そしてそのことを正当化したい、という強い願望。
これはもちろん、他人についても自分についても、生命や生存をかけがえのない重いものとして捉えることへの忌避の願望と結びついているだろう。その重さに気づいてしまえば、その人は、現在の社会のなかで安定した生活を送ることが困難だろうことが直観されているからだ。


だが実は、この「自己責任だから仕方がない」という価値観、自分や他人の命の重さ、その困窮や死を直視することを避けたいという願望は、この私自身のなかにも強固にあるものなのである。
私自身の怠惰や依存、また他人に対する実際には冷淡で無責任な態度、あるいは残虐でさえある傾向は、そこに原因していると言えるだろう。
私は、私自身や他人が、あるいは怠惰や依存が原因で、あるいはまた市場で評価される「能力」の低さだとか、属性だとか、階級だとか、モチベーションの低さだとか、何がしかの理由によって生存の危機に追い込まれるということを、どこかで「仕方がない」ように思ってしまっているのだが、その冷淡さは、深いところでは自分の生命と身体がさらされている危機や「貶められていること」、要するに被暴力とも呼べるような現実を見ないですませたい、言い換えれば自分の身体と「私の身体を抑圧し傷つけているもの」との衝突の現場から目をそむけたままでいたい、という願望に結びついているのである。


私は、この自分の生命や身体がさらされている現実に対する否認の願望に打ち克たなければ、自分の自他に対する「冷淡さ」、意識せざる「自己責任論の欺瞞」から逃れられないだろうと思う。
怠惰とか依存と呼ばれるものがはらんでいる倫理的な問題は、本当はこのことなのだろうが、それを(当事者と共に、また当事者である私自身と共に)見つめていくことは、自己責任論が暗黙に目指している生命の重さを直視することへの忌避とは、まったく逆の方向を向いている社会的な課題なのである。