『官僚制のユートピア』

 

 

新自由主義に覆われた今日の世界のあり方を、(一般的な見解とは異なって)全体主義的官僚制(その最大の王国は米国)と定義し、批判する内容。

全編にわたって非常に面白く、重要なことばかり書いてあるのだが、僕は特にこの官僚制(=

新自由主義)の世界における、想像力の不均衡を論じた、最初の章の論考にひきつけられた。

ここで著者は、自身の人類学者としての、マダガスカルのポスト・コロニアル社会についての知見とともに、フェミニズム理論の成果に多くを負いながら論を展開している。

 

 

『この論考の主要な対象は、暴力である。ここで論じたいのは、暴力によって形成される状況は、官僚制手続きにふつうむすびつけられているさまざまな種類の自発的盲目を形成する傾向にあるということである。ここでいう暴力とはとりわけ構造的暴力である。構造的暴力という言葉でわたしの意味しているのは、究極のところは物理的危害の脅威によって支えられた偏在的な社会的不平等の諸形態である。(p81)』

 

 

この事柄を説明する為に、著者は一つのSF的な寓話を語る。ある惑星で、高度なテクノロジーと軍事力をもった好戦的な種族、アルファ族が、温厚な別の部族、オメガ族の(豊かな資源を持つ)土地を侵略・支配したうえで、支配のための宗教的イデオロギーを作り出してオメガ族の人々に流布する。アルファ族は優秀で美しく正しい故に支配者であり、オメガ族は劣っている故に支配されるのが当然だというイデオロギーだ。支配されたオメガ族の人々を外見的にみると、あたかもこの押しつけられたイデオロギーを信じ込んでいるかのようである。

 

『たぶんある意味で、かれらは本当にそう信じている。だがより深くみると、かれらが本当に信じているかどうなのかを問うことにはさして意味がない。この仕組み総体が、暴力の果実であり、継続的な暴力の脅威でもってのみ維持可能なのであるから。実際には、オメガ族はよくわかっている。もし、だれかが、この財産所有の仕組みや教育へのアクセスに直接に挑戦しようものなら、刀剣がふりかかってきてその人間の頭を切り払ってしまうだろうことは、ほぼ確実である、と。このような事例において「信じる」ということで語られていることがらは、この現実にみずからを適応させるために、人びとが発達させた心理学的技術にすぎない。もしなんらかの理由でアルファ族が暴力という手段を自由に操ることができなくなったとして、オメガ族の人びとがどのようにふるまうのか、どのように考えるのかについて、わたしたちはなにもわからないのだ。(p83~84)』

 

 

 

暴力の脅威に支えられた、このような支配と不平等の構造がもたらすのは、想像力の不均衡という事態だと、著者は言う。

支配される側が、支配する側に対して、生存をかけた鋭い洞察を行い、ときとして、そこに想像力にもとづく人間としての強い共感さえ覚えるのに対して、支配する側、特権を有する側には、支配される側への想像力が働かない。いわば、支配する側(マジョリティー)においてそれ(想像力・人間性)は、構造的に剥奪されているのだ、自分自身が手放さずにいる特権性によって。

 

 

『主人と召使いであろうと、男性と女性であろうと、雇用者と被雇用者であろうと、富者と貧民であろうと、構造的不平等―構造的暴力とここで呼んできたもの―は、例外なく、高度に偏りのある想像力の構造を形成してしまう。おもうに、想像力は共感をともなう傾向がある、とするスミスは正しい。だから、構造的暴力の犠牲者は、構造的暴力の受益者が犠牲者たちを気遣うよりもはるかに多く、受益者を気遣う傾向があるのである。暴力そのものに次いで、こうした[不平等な]諸関係を維持する単一の最大の力が、これ[この想像力の構造]であろう。(p102)』

 

 

著者が呼びかけるのは、想像力の(奪回の)ための、想像力にもとづく、社会体制との闘いだ、と言えばよいだろうか。

 

『先史学者プラトン』

先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学

先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学

 

 

とにかく面白い本だ。

内容も驚きの連続だし、原著が素晴らしいのだろうが、訳文も、図の置き方など本の構成も至れり尽くせりというほど読みやすい。

内容について、まず驚かされるのは、旧石器時代の文化が、想像を越えて発達したものだったという、これは立証されているらしい事実だ。なかでもラスコーの壁画が、本書では大きな役割を果たすのだが、他にもたとえば、二万年も前の人たちが動物を飼育し、手綱や馬具をつけて馬に乗っていた形跡があるとか、パレスチナのエリコから出土した塔の付いた巨大な要塞風の壁が一万年近くも前のものであるとか、考古学の知識に疎い僕には、驚きの連続である(人間はこんなに大昔から巨大な「壁」を作ってたのかと、ウンザリもするが)。

こうしたことをもとに、著者は本書の前半で、いわゆる新石器革命に重きを置く直線的な進歩史観のようなものに反論を呈するのである。

それは、プラトンの書物に出てくる約一万年以上前についての伝説風の物語(アトランティスと超古代アテネとの大戦争)を、歴史の事実を反映したものとして受けとって、その証拠を探してくるという大胆な手法による。具体的には、紀元前8500年頃に広大な地域(ヨーロッパ全域、ウクライナ、中東、北アフリカなど)を舞台にして行われた大戦争と、その後の洪水や海面上昇などの気候変動によって、それまで存在していた旧石器時代の高度な文化とその痕跡が失われてしまったのだ、という仮説だ。

この大戦争の証拠として、著者は、武器や傷ついた人骨などの戦闘を想起させる出土品が、この紀元前8500年前後という一時期に集中して、上記の広範囲な各地から見つかっていることをあげている。鏃(やじり)や鎌などの、従来は狩猟や農耕に結びつけられて考えられてきた物品も、状況を考えると武器と捉えた方が整合性があるのだという。また、それ以後の時代の埋葬形式や壁画などから、戦勝の記憶と「戦士崇拝」の伝統を読みとっていく。

 こうした著者の観点は、進歩史観に対する循環史観と呼べるようなものだ。技術の発達がもたらす戦争の繰り返しと、やはり周期的に訪れてきた気候変動によって、一定の高度な段階に達していた旧来の文化は、何度も消滅し、また復活を繰り返すのだという考え方。

 著者は、ラスコーの壁画に代表されるマドレーヌ文化と呼ばれる旧石器時代の文化を称揚し、そうした高度な文化や芸術が、やがて大規模な戦争への誘惑に傾くことで堕落し、消滅に向かっていったと語るのだが、こうした歴史への見方(戦争への意志が文化を堕落、消滅させる)は著者の核心にあるもののようだ。

 それは、今の時代の気分に訴えかけてくるものであることは確かである。たとえば、本書の初めの方に引用されている「アトランティス」伝説についてのプラトンの記述を読むと、この大西洋の彼方にあって、繁栄の後に滅亡した大帝国とは、今のUSAの姿を予言したものではないかと思えてしまう(ちなみに原著の出版は1980年代らしい)。

 

『しかし、彼らの内にある神の要素は、死すべき人の子との交わりが増えるに従って弱まってゆき、人間の特性が前面に出るようになると、彼らは節度ある繁栄を進められなくなったのです。洞察力を備えた人の目には、彼らの衰退がいかに深いものであったかは明らかすぎるほどです。他方でなにが本当の幸福かを判断できない者の目には、放任された野心や権力の追求が、彼らの名声と盛衰の絶頂に見えたでしょう。(プラトン『クリティアス』より)』

 

 

 ところで、こうした著者の議論の大きな特徴は、科学的データに基づく考古学の膨大な物証を、神話学の知見を動員して推理しまとめ上げていくというものだ。いわば、神話的想像力の援用による太古の歴史的現実の再構成。

 ここにもちろん、本書の危うさもあるのだろうが、極めて魅力に富むものであることも間違いない。たとえば、ラスコー洞窟の「聖域」に描かれている壁画の意味を、インド=ヨーロッパにあまねく分布している「原初の牡牛」の創世神話に結びつけていくくだり(p169~172)のスリリングさなどは、見事の一語に尽きる。

 遠い昔の記憶(出来事)を語るためには、それに最もふさわしい語り方を編みだすことが不可欠であるという意味のことを、プラトンの書物の登場人物たちは言っているのだが、本書の叙述は、まさにそれを実践しているともいえる。

 

 

 さて、本書の後半では、上記の大戦争から約二千年後、新石器時代に移行して後のある時期(紀元前6000年代)に起きた「遊牧から農耕・定住」へという大きな変化の原因が探られることになる。

 この時期、ペルシャから中東を経て南東ヨーロッパにまで及ぶ広大な地域で、多くの人々が遊牧や狩猟の生活を棄てて農耕にシフトするということが起こった。ところが、この農耕生活というものは、それ以前の生活の仕方と比べて、豊かでも安定的でもなかったことが分かってきたのだという。では、なぜこの時期に人々はこのシフトを行ったのか。

 著者の推論は、それは宗教の力によるものだ、ということである。それまでの原初的で供犠的(デュオニソス的)な信仰を否定して、自然の循環を「正しい道」として敬うような信仰の登場と拡大が、それをもたらした。

 著者はここで、初めての世界宗教とも呼ぶべきゾロアスター教の教組であるザラスシュトラが、紀元前6000年頃に既に存在していたという古い伝承に着目し、さらに大胆な議論を展開していく。

 その内容は、やや思弁的でもあり複雑で、僕には整理することが難しいが、やはり非常に興味深いものだ。

 僕は特に、次のような一節が印象的だった。

 

『だが、地下の神々を表す主題―牡牛、ヘビ、ヒョウ、「踊り手たち」―が時おりのこととはいえ、メソポタミア文化の先導者たるハラフ土器に現れる(とりわけサマッラ土器には悪霊的な形象が現れる)のはどういうことなのか。これらはまったくもってザラスシュトラの宗教の初期において期待できないものだ。かの預言者は、おそらく当時あった自然信仰を糾弾した。実際、この時期の最初の数世紀のあいだ、イラン高原の土器では自然にまつわる主題が見られなくなった。だが、後期アヴェスタのヤシュトによってすでに確認したように、古イランの宗教がもっているディオニュソス的側面は、ザラスシュトラの改革によって和らげられ、あるいは変形されたものの、根こそぎにされたわけではなかった(預言者はそうしたかったとしても)。あるイラン学者は、こうした古代信仰の要素はむしろ「いっそうの高みへと押し上げられ、その精神を浸透させたのである」と言っている。

 同じことは、ミトラ崇拝についても言える。それはザラスシュトラの時代より古いと考えられており、後期アヴェスタのゾロアスター教においても突出した役割も果たしている。先に述べたように学者たちは、この時代の戦士の神の信者が、いつかの時点で、預言者による改革に従事する「十字軍」へと変わったのだと推論している。ミトラを太陽と同一視するようになったのもこれと同じ時期のことだろう(イラン学者のなかには、ミトラはもともと水に関連していたと考える者もある)。 (p362)』

 

 これはもちろん、原初的な信仰の中にあった自然信仰が、ある形でザラスシュトラの宗教に取り入れられ、それが農耕生活という選択、また自然の秩序と「正しい道」の重視という人倫的な、あるいは現在の言葉でいえばエコロジー的な思想にもつながっていったということを述べているのである。 

 だが裏返して言うと、それは、この人倫的なもの、エコロジー的な考え方のなかに、デュオニソス的な荒々しい何かが残存しているということ、だからこそ、それは多くの人々を引きつけ心服させたのだということも意味しているのではないだろうか。

 だとすれば、どんな高度で人倫的な文化の中にも、つねに「野蛮」と戦争への巨大な欲望がうごめいていることを、われわれは常に自覚している必要があるということになるのだろう。

 

 

 最後に、この本を読みながら想起した別の本を何冊か挙げておこう。

 まず、これも最高に面白い歴史の本、ジョナサン・ハリスの『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』。これは、『先史学者プラトン』で扱われたのとかなり重なる地域の歴史の話だが、権力闘争や、文化や民族の移動と混交のあり様もダイナミックに描かれていて、やはりグローバル化した現代世界の状況とオーバーラップするところが多い。たとえば、後にスターリン政権が行なったような国内の少数民族を戦略上の理由などで遠隔地に強制移住させる政策が、はるか昔から行われていたことを知ることが出来る。

 次に、歴史に対する神話的想像力の「奪回」という意味では、石母田正が序文を書いた武者小路穣の名著『物語による日本の歴史』。

 https://arisan-2.hatenadiary.org/entry/20161004/p1

 

 僕はこの本で、古事記竹取物語に内包されている、すぐれて反天皇制的な力を知ることが出来た。

 同じような意味で、戦前の日本児童文庫(アルス)の『日本昔話集』に収められ、弾圧下の羽仁五郎が1940年に書いた「日本文学と歴史」という論考の中に引用した、台湾の原住民の神話、いわゆるセデック・バレの物語(佐山融吉訳)。この日本語訳と紹介・受容は、もちろん日本のアジア侵略と切り離せないものだろうが、同時に、戦時下での抵抗、「反日」のメッセージの表現としても、これを読むことが出来るのではないだろうか(若者たちが苦難の末に太陽を打ち倒す物語だ。)。羽仁のこの文章は、『羽仁五郎歴史論抄』(筑摩書房)に収められている。

 最後に、新井白石の『本朝軍器考』。このなかで白石は、固定して矢を放ついわゆる弩(おおゆみ)や石弓という強力な兵器が、日本ではある時期(源氏と安倍貞任の軍勢が東北で戦った頃)までしか多用されず、その後は次第に姿を消していったことに注目して論じている。このことは、今日の研究では、大和朝廷と他の部族との大規模な戦闘がこの時期に終了し(よく知られているように、安倍貞任蝦夷である)、以後は源平に代表されるようないわば「内輪」の小規模な戦争が主となったことが理由と考えられているようだが、江戸時代前期にすでにこうした事柄に注目していた白石の直観力は、さすがだと思う。

南京証言集会にて

12月7日(土曜日)、大阪天満のPLP会館であった南京証言集会に行った。

特に印象深かったのは、今年92歳になる幸存者の男性のお話(南京で収録された映像)で、この人は日本軍による虐殺で3人の肉親を失った方だが、最後にこう言われていた。正確ではないが、僕が聞き取った意味合い。

 

「私たちは、あの戦争で多くの中国人が殺されただけではなく、多くの日本人の命が奪われたことももちろん知っている。(たとえば)東京大空襲や、広島・長崎の原爆。

 ただ、(大事なことは)それらの日本の死者たちも、中国の死者たちと同じく、日本が行なった侵略戦争の被害者だということだ。平和のために、そのことを日本の人たちに言いたい。」

 

この言葉を聞いて僕は、僕たち(日本人)は、この呼びかけに応えられないまま、今まで来てしまったのだな、と思った。

ゲバラだったか郭沫若だったか忘れたが、広島の原爆の慰霊碑を見て、「あなたたちは、二度と悲劇を起こしませんと誓うのではなく、悲劇を起こさせませんと言うべきではないのか」と問いかけた人があった。

それは、日本の民衆に、天皇制国家からの分離・独立を求めた言葉だったと思う。それが出来た時にはじめて、人間同士の連帯の道は開かれるのだ。

日本人は、その呼びかけにも関わらず、自国の死者たちが自国による戦争の犠牲者だということを認めず、自国(国家)と天皇を免責してきた。それは、自分たちと国家や天皇との一体性を守るということであり、そのことによって僕たちは、アジアの人々との連帯の可能性を切り捨てたのだと思う。

広島・長崎への原爆投下を非難する言葉が、日本(天皇制)国家の侵略戦争への非難と結びつけられて明言された例を、僕は寡聞にして知らないのだが、それがなければ、戦後の現実政治の中での平和(核の無い世界)への言明は、日米軍事同盟の「核の傘」の下で核廃絶(あるいは米国の軍事的行為への擬態的な非難)を叫ぶという、いかにも奇妙な構図をとらざるをえないのではなかろうか。もちろん、これは核兵器の問題に限られない。

南京の虐殺から80年以上が経った今でも、この問いかけは生々しい力を持ち続けている。そのことから、私たちの社会の無作為の暴力が(とりわけ東アジアの現在に対して)もたらしたものの大きさに、あらためて思い及ばざるをえない。

国場幸太郎『沖縄の歩み』

国場幸太郎の伝説の名著ともいわれる『沖縄の歩み』が、今年6月、岩波現代文庫から修正を加えて再版された。この本は、施政権返還から間もない1973年に、牧書店というところから、青少年向けのものとして出版されたそうだが、平易な文章でありながら重厚な内容である。

 題名の通り、古代からの沖縄の歴史を書いてるのだが、冒頭の二章に沖縄戦を置き、それ以前とそれ以後の歴史を書き継いでいくという異例の構成だ。沖縄にとって、歴史とはどのようなものとして存在するのか、そして、それは沖縄だけにあてはまることなのか、このことからだけでも考えさせられよう。

 73年の初版時に書かれた「まえがき」で、著者の国場は、こう書いている。

 

『沖縄を見る目は、日本を見る目をするどくすると、よくいわれます。沖縄の歴史を知ることは、沖縄の現実を理解し、沖縄の将来を考えるのに必要なだけではありません。それは、また、日本の真実の姿に照明をあて、日本の前途を考えるためにも必要なことです。

 私は、そう考えて、この本を書くことにしました。(pⅲ)』

 

 つまり、呼びかけられているのは、私たち日本の民衆でもあるのだ。

 

 

 本書の最大の特徴は、なんといっても、沖縄が歴史のなかで常に日本(ヤマト)の植民地主義の暴力にさらされてきた、という視点の一貫性だ。

最近、首里城の消失に際して、琉球王国の繁栄が想起され、明治の「琉球処分」がそれを無残に潰したことも語られたが、本書を読むと、それに先立つ薩摩藩の(構造的には日本全体による)琉球への支配こそが全ての始まりだったことがよく分かる。

 明治以後、アジア侵略に向かう日本帝国の(戦後は日米の同盟による)政策の下で、そうした支配からの脱却を求めた沖縄の人々の歩みを、著者は(自身の米軍機関による拉致・拷問の体験をも交えながら)書いていくのだが、そこでとくに印象的なことは、あくまで内側からの批判の目を失わずにしっかりと見つめる姿勢だ。その捉え方が、よく示されている箇所を引用しよう。

これは日本復帰運動が始まった1950年頃の沖縄の状況に関するくだりだが、当時も一部にあった反対派(「独立派」)の「日本に復帰したのでは、被差別と搾取の現実が再来し、沖縄戦の悲劇が繰り返されるだけだ」という主張に対して、復帰派の人びとが「われわれが復帰しようとしているのは、かつてのような天皇中心の日本ではなく、国民中心の民主主義的で平和愛好国家の日本なのだから、そんな心配は杞憂に過ぎぬ」という趣旨の応答をしていたことについて、こう書かれている。

 

『これでは、問題の答えになっているとはいえません。なぜかというと、ここにえがかれている日本の姿は、現実の日本の姿ではなく、日本復帰を主張する人びとの胸のなかにある理想の姿でしかないからです。もし、当時の日本が、ここにえがかれているように理想どおりの民主的な平和愛好国家になっておれば、沖縄を日本から分離して、アメリカの軍事基地にすることに、日本政府が賛成するはずはありません。

 しかし、事実は逆に、日本政府は、日本の独立を回復してもらい、資本主義経済を立てなおしてもらう代償に、沖縄をアメリカの軍事占領支配にゆだねたのでした。第二次大戦の末期に、アメリカ軍の本土上陸を引きのばし、本土決戦を避けるための捨て石にされた沖縄は、こんどは、日本が敗戦の憂き目から立ちなおるための質草として、アメリカにゆずり渡されたのです。そして、沖縄の住民が「八千万同胞」と親しく呼びかけている日本国民も、一部の人びとをのぞいて、沖縄のことにはほとんど関心がありませんでした。それでも、なお、沖縄の人びとは、理想の「祖国」を思いえがいて、日本復帰運動をつづけました。それ以外に、アメリカの軍事占領支配からぬけ出す道を見つけることができなかったのです。(p224~225)』

 

 著者は、上記の反対派の言い分が「杞憂」に終わらなかったことが明白となった、1973年の時点に立って、これを書いているのである。

 結局、日本の(あるいは日米の)植民地主義的な支配から脱却し、解放されようとする沖縄の人々の歩みは、一面では、つねに、理想化された強い他者(清国・祖国日本・米国など)に依存しようとしては裏切られるものだった。このことは、一見「解放」とは逆のベクトルを持つように見える「日本化」「皇民化」の願望の底にも、共通して見出される、沖縄の人々の苦しみのあり方であり、桎梏そのものだったともいえよう。

 国場(著者)は、そうした理想化された他者への依存という心性から脱して、自分たちの足下から解放への道筋を作り上げていくことの大事さを、この本で語っている。

 そして、その実践の生きた証として、とりわけ第二次大戦後の沖縄の人々の、米軍の軍事占領に対する抵抗の積み重ねを見ようとするのである。それは、ひたすら「本土なみ」になることを求めてきた戦前の沖縄の姿と対比する時、自分たちと同様に外国の植民地支配の暴力に苦しんできたアジアの人民との連帯を目指すという、まったく新しい心のあり方を示しているからだ。

 このような国場の眼差しは、天皇(そして米国)という理想化された依存の対象に、またしても耽溺しつつある私たちをこそ、鋭く打つものであろう。

 

 

沖縄の歩み (岩波現代文庫)

沖縄の歩み (岩波現代文庫)

 

 

『ジハードと死』

本書で著者は、宗教の過激化(原理主義)と、過激性の宗教(イスラーム)化とを区別している。

前者は、移民やグローバリゼーション、それに世俗化(ライシテ)といった原因によって引き起こされている「宗教の脱文化」(宗教が文化から切り離されること)と呼ぶべき現象であり(ただ、著者がこれを現代に特有の現象と考えているのかどうかは、僕にはよく分からなかった)、それと「大規模テロ」やダーイシュへの若者たちの参加という状況とは、全く無関係とはいえないが、別に考えるべきだと、著者は主張する。

宗教がどれほど原理主義化・過激化したところで、それが過激な「テロ」や聖戦を引き起こすとは限らない、というのが著者の言いたいことである(米国のキリスト教原理主義などを見ていると、もっとひどい破壊を引き起こしてる気もするが)。

「大規模テロ」を実行したり、シリアでの「聖戦」に参加したりする若者たちに見られるのは、死への願望のようなものであり、彼・彼女らは死によって、自分の生に「大義」を付与し、(主観的な)栄光を手にしようとしてるのだ、というわけである。

神風特攻隊を思い出させるが(もちろん、カミカゼという言葉はこうした行為をする世界中の人たちの間では有名なものだろう)、このあたりの分析には興味深いものもある。

それは、現代の世界における実存ということに関わっているからだろう。

 

『彼らは親よりも先に死ぬが、そうすることで、親に救いと永遠の命をあたえる。自分が犠牲になれば、罪に汚れた親は自分の仲介で天国にいけるというわけだ。テロリストたちはこうして親を生みなおすのである。(p58)』

 

そして著者は、こうした若者たちの行動は、イスラームや宗教にとどまらないもっと広範囲な「過激性」の広がりの一部をなすもので、その大きな広がりがイスラームをも捉えたということであり、それをもっとも巧妙に活用した勢力がダーイシュであるという。

実際に、最近の例だけを取りあげても、やまゆり園の事件や京アニの事件など、日本でも宗教とは関係のないところで、大規模な殺傷事件が発生している。もちろん、宗教の名による「大規模テロ」が日本でもあったことは、まだ記憶に新しいが(なにしろ「神風」をはじめとして、天皇教というカルトによる国家的な大殺害をやってきた国である)。

だから、こうした大規模な暴力事件や行為の根底にあるものが、宗教という問題圏を越えているということ、少なくともそれとは別な種類の現象だということは、納得できる。

ただ、その「過激性」という大きな現象の中味については、本書では十分な分析がされているとは思えない。著者の主な関心は、先述の「宗教の脱文化」の方にあり、「過激性」一般の方は、やや専門外なのではないかと思う。

著者は、このことを「若者」一般の傾向のように書いてしまうのである。

 

『世代に依拠した反乱は、中国の文化大革命からクメール・ルージュを経てダーイシュにいたるが、そこには、すべてを白紙にし、記憶を消し去り、親たちに対して真理の支配者になろうという意志が刻みこまれている。過激な若者が反逆に向かうのは、松明を受けつぎ反乱を継承するためではなく、過去の記憶が欠落し、親たちが沈黙と無力におちいっているからである。ドイツ赤軍は前の世代がナチスの時代について口をつぐんでいることを非難していた。また一九六〇年代にフランスに移住したアルジェリア人二世たちにとっては、フランスに抗する民族をあげての戦いについて高言を吐いてきた一世たちが、結局フランスに移住し、隷属同様の立場に甘んじていることが理解しがたかった。(p145)』

 

「沈黙と無力」というが、ドイツの戦中世代が「沈黙」したのは(日本でもそうだが)、無力どころか、力を保持する為だろう。アルジェリア人一世たちが強いられた「無力」とは、その帰結は旧来の支配構造の温存ということで同じであっても、立場においては全く違う。

著者の視点には、そういう過去から現在へと継続している構造に対する批判の力が欠けているのだ。

それは、生を束縛する現実を直視する力を欠いているということであり、したがって、その現実のなかに置かれた実存の苦悩に関しても、制度の内側の視点からの分析にとどまってしまっている。

 

ジハードと死

ジハードと死

 

 

大道寺将司句集『残の月』

『残(のこん)の月』は、大道寺将司の2012年から15年までの作を収めた句集である。

死刑囚であったことに加え、晩年の2010年以降はガンとの闘病も重なっていたからだろうが、自分の生命(それは国家ではない、別の何ものかによって生かされていた)と向き合い、そこから、自分が奪った生命の重さ・かけがえのなさにあらためて直面し、さらに、歴史の中で権力により奪われていった無数の生命の重さにあらためて思い及んでいく、そうした過程を想像させる本になっている。

また、2011年3月に起きた震災と原発事故に関連する句(明示されていなくても)が多いのは、(国策によってもたらされたものでもある)災害や被曝という事柄が、この生命への思いと深いところで重なるものだったからに違いない。

以下、ランダムになるが、句の感想を記しながら内容を紹介する。

 

生きてあることの宜しくづくの鳴く

 

きれぎれの一生涯よひこばゆる

 

いくそたび告げられし死ぞ草青む

 

 「づく」とはミミズクのことだそうだ。

最初読んだとき、「きれぎれの一生涯よ」という表現からは否定的な詠嘆のような印象を受けたが、「ひこばゆる」(根株や折れた枝先に芽が出ること)という語意を知り、次の句の「草青む」という言葉ともあわせて考えると、むしろ、そういう極限の状況にあっても息づき続ける生命の力の不思議さを肯定する心境を詠ったものに思えてくる。

だが、それはもちろん、以下の句に詠われるような死の切迫の実感と表裏をなすものであったろう。

 

花の朝のんどをごきと潰されし

 

堕ちむ時ちちろの声を聞かむかな

 

塩辛き時雨に濡れて消えゆくか

 

あじさゐやまた今生の朝迎へ

 

西瓜食ぶ刑死のことは考へず

 

蝉のこゑ秋津の鬼になれと言ふ

 

月白や残さるる日を恃みとし

 

縮みゆく残の月の明日知らず

 

「ちちろ」とはコオロギのこと、「秋津」とは日本の呼び名、そして「残の月」とは「まだ残っている月」をいう言葉だそうだが、また次のような句もある。

 

狭霧湧く駅に待たるるのどぼとけ

 

キム・ミレ監督のドキュメンタリー『東アジア反日武装戦線』では、大道寺の故郷である北海道の地の深い霧が印象的だ。

狭霧湧く駅とは、その郷里の駅のイメージだろうか。そして、のどぼとけとは、もちろん遺骨の隠喩だろう。

その「故郷」への思いは、次のような歴史の現実と切り離せないものとしてあった。

 

落葉敷くアイヌ・モシリに父母の墓

 

ノッカマップに散り敷く枯葉群れ立てり

 

ノッカマップとは、その故郷に近い、蜂起したアイヌが和人に虐殺された地であるという。

その思いの重さに押し潰されるようにして自分が犯してしまった、生命に対する取り返しのつかない罪への悔恨。

 

贖物は身ひとつなりぬ断腸花

 

加害せる吾花冷えのなかにあり

 

冬の月詫ぶる四壁の絶え間より

 

息の緒を奪ひてしるき烏瓜

 

 この最後の句の印象は、とりわけ峻烈だ。息の緒(命)を奪ってしるきものとは、自分(大道寺)自身でもあり、また同時に国家(つまり僕たち)でもある。

そう自覚して、次のような句も読まねばならない。

 

木枯や連れて帰らぬいのちたち

 

枯葉掻くごと員数を除きけり

 

武士という存在が大きな比重を占めた、日本の伝統文化や宗教・思想においては、「殺害からの回心」ということが、重要なテーマになってきた(「善人なおもて往生を遂ぐ」など)。大道寺将司が、俳句という伝統的な詩形にその深い表現の場を見出したことは、その意味で偶然ではないと思う。

 彼は確かに直接的な殺害を行った。だが、侵略戦争や植民地支配、また死刑制度ということを別にしても、人間社会で間接的な殺害を行っていないものなど、果たして居るだろうか。

その殺害の規模と、正当化の仕組みとは、今日急速に増大と高度化の一途をたどっている。

大道寺の表現は、その事実への内省をも鋭く迫るものとなっていると思う。

 

 

国家が生命に及ぼした暴力である、震災の被害や被爆に関する句としては、「放射能」「建屋」「セシウム」といった語を用いた直接的な表現のものが目を引くが、僕としては以下のような明示的でない作に、特に心惹かれるものを感じた。

 

なり見えぬものこそ恐し花けぶる

 

散らされし牛の野晒し星流る

 

人絶えし里に非理なし蝉時雨

 

料峭の地に赤丸の旗垂るる

 

「料峭」とは、春先の寒い時期の気候のことをいうそうだが、この句集においては、それが「3・11」の記憶と結びついていることは明白である。

 

 

さらにもう少し、句の感想を書いておこう。

 昆虫をはじめとした小動物への共感、そこにかもしだされるたくまざるユーモアは、この作者の特徴の一つのようだ。たとえば、

 

九条も螻蛄(けら)の生死も軽からず

 

秋の蚊の拗ね者に仇なしにけり

 

燕雀の性根は勁し芋嵐

 

梟の眠りうかうか四十年

 

野伏せりとちちろの夜を分けにけり

 

 「ちちろ」は、先に書いたようにコオロギのことらしい。「野伏せり」とは、野宿者や山賊のことを言うと注釈にあるが、「賊」とは、国家の意に沿わず生きる者の総称でもあるだろう。この句には、「分けにけり」という言葉に、共生の理念を感じさせるところがある。

また、2014年の、「韓国珍島」という前書きを付された

 

沈没を無為に見てゐる四月かな

 

という句は、明らかにセウォル号事件のことを詠んだものだろうが、大道寺の心がなお朝鮮半島の人民にあったことをうかがわせると同時に、牢獄のなかにある自分の無力への言いしれぬ思いが伝わってきて、忘れがたい印象を残す。

 

花冷えやただあてびとを仰ぐ群

 

 「あてびと」とは、高貴な人の意。

 

日の丸の波不穏なる土用入

 

尊ぶは倭ばかりや冬ざるる

 

日の丸の揺れて戦時の貌となる

 

啓蟄やみな心中に狂気秘め

 

憲法卯の花腐し頻るなり

 

 「卯の花腐し」とは、梅雨に先駆けて降る長雨のことだそうだが、沛然と降る雨は古くから処刑のイメージにも重ねられる。

 江戸時代初期の若狭(小浜)の義民として知られる松木庄左エ門が処刑された時、刑場に「卯の花腐し」が降り注いだという記録があるのを大道寺は知っていただろうか。

 

抗はぬ民と侮る春の潮

 

蒼氓の枯れて国家の屹立す

 

 「蒼氓」とは、石川達三の第一回芥川賞受賞作の作品名としても知られるように、困窮し流浪する人民をあらわす言葉である。

そこには、アイヌモシリに植民すること余儀なくされた「父母」の記憶が重なり、また原発事故によって故郷を追われたうえ、避難した先でも排除されようとする、国家の犠牲者である民衆の姿が浮かぶだろう。

 

 

大道寺将司は、極限的な生存のなかでこれらの作品を残したことによって、生命を否定する国家権力と死刑制度に対する最大の弾劾を為したと思う。

 

 

うどん屋にて』

 

昨日、中之島であった抗議集会とデモに行く途中、入ったうどん屋でたまたま中継を流してたので、新天皇が即位にあたっての所信表明みたいなのをする場面を見た。

各局が昼間は特別番組を組むのかと思ってたが、NHK以外は通常営業のワイドショーで、芸能ネタなど他の話題を流してる合間に、適宜「式典」の生映像を入れるというスタイルだったようだ。それだけ、天皇制(=軍事化)が、日常に深く浸透したということだろう。

店員も、お客たちも、中継には関心を示していない、もしくはそんな風を装っていたが、それでも画面をチラチラ見てる人も居て、その一人が僕だった。

すだれみたいなのが開いて、天皇が出現するシーンは、昔の手品みたいで滑稽だったが、外国の人には分かりやすい演出(「東洋」のイメージ)だっただろう。

天皇の言ってることは、あまりにも型どおりなので、逆にびっくりしたが、よく考えれば、「先代」も即位当初はあんなものだったと思う。官僚の作文、もしくは吹きこまれた内容を、あたかも自分で考えたもののように演じきること、そのように自分でも思いこむこと(それが、リベラリズムというものの内実だが)には、「芸」の熟練が必要で、「先代」がその域に達したのは、退位間近になってからだったと思う(彼の越えられない理想である先々代に少しは近づけたか?)。

もちろん、熟練した芸人とは、観客の「願望」を、無意識のうちに感じとって演じて見せる者のことを言うのである。

 

温かいうどんの味はまずまずだったが、「冷やしぶっかけ」にすれば良かったと、店を出るとき思った。