『ジハードと死』

本書で著者は、宗教の過激化(原理主義)と、過激性の宗教(イスラーム)化とを区別している。

前者は、移民やグローバリゼーション、それに世俗化(ライシテ)といった原因によって引き起こされている「宗教の脱文化」(宗教が文化から切り離されること)と呼ぶべき現象であり(ただ、著者がこれを現代に特有の現象と考えているのかどうかは、僕にはよく分からなかった)、それと「大規模テロ」やダーイシュへの若者たちの参加という状況とは、全く無関係とはいえないが、別に考えるべきだと、著者は主張する。

宗教がどれほど原理主義化・過激化したところで、それが過激な「テロ」や聖戦を引き起こすとは限らない、というのが著者の言いたいことである(米国のキリスト教原理主義などを見ていると、もっとひどい破壊を引き起こしてる気もするが)。

「大規模テロ」を実行したり、シリアでの「聖戦」に参加したりする若者たちに見られるのは、死への願望のようなものであり、彼・彼女らは死によって、自分の生に「大義」を付与し、(主観的な)栄光を手にしようとしてるのだ、というわけである。

神風特攻隊を思い出させるが(もちろん、カミカゼという言葉はこうした行為をする世界中の人たちの間では有名なものだろう)、このあたりの分析には興味深いものもある。

それは、現代の世界における実存ということに関わっているからだろう。

 

『彼らは親よりも先に死ぬが、そうすることで、親に救いと永遠の命をあたえる。自分が犠牲になれば、罪に汚れた親は自分の仲介で天国にいけるというわけだ。テロリストたちはこうして親を生みなおすのである。(p58)』

 

そして著者は、こうした若者たちの行動は、イスラームや宗教にとどまらないもっと広範囲な「過激性」の広がりの一部をなすもので、その大きな広がりがイスラームをも捉えたということであり、それをもっとも巧妙に活用した勢力がダーイシュであるという。

実際に、最近の例だけを取りあげても、やまゆり園の事件や京アニの事件など、日本でも宗教とは関係のないところで、大規模な殺傷事件が発生している。もちろん、宗教の名による「大規模テロ」が日本でもあったことは、まだ記憶に新しいが(なにしろ「神風」をはじめとして、天皇教というカルトによる国家的な大殺害をやってきた国である)。

だから、こうした大規模な暴力事件や行為の根底にあるものが、宗教という問題圏を越えているということ、少なくともそれとは別な種類の現象だということは、納得できる。

ただ、その「過激性」という大きな現象の中味については、本書では十分な分析がされているとは思えない。著者の主な関心は、先述の「宗教の脱文化」の方にあり、「過激性」一般の方は、やや専門外なのではないかと思う。

著者は、このことを「若者」一般の傾向のように書いてしまうのである。

 

『世代に依拠した反乱は、中国の文化大革命からクメール・ルージュを経てダーイシュにいたるが、そこには、すべてを白紙にし、記憶を消し去り、親たちに対して真理の支配者になろうという意志が刻みこまれている。過激な若者が反逆に向かうのは、松明を受けつぎ反乱を継承するためではなく、過去の記憶が欠落し、親たちが沈黙と無力におちいっているからである。ドイツ赤軍は前の世代がナチスの時代について口をつぐんでいることを非難していた。また一九六〇年代にフランスに移住したアルジェリア人二世たちにとっては、フランスに抗する民族をあげての戦いについて高言を吐いてきた一世たちが、結局フランスに移住し、隷属同様の立場に甘んじていることが理解しがたかった。(p145)』

 

「沈黙と無力」というが、ドイツの戦中世代が「沈黙」したのは(日本でもそうだが)、無力どころか、力を保持する為だろう。アルジェリア人一世たちが強いられた「無力」とは、その帰結は旧来の支配構造の温存ということで同じであっても、立場においては全く違う。

著者の視点には、そういう過去から現在へと継続している構造に対する批判の力が欠けているのだ。

それは、生を束縛する現実を直視する力を欠いているということであり、したがって、その現実のなかに置かれた実存の苦悩に関しても、制度の内側の視点からの分析にとどまってしまっている。

 

ジハードと死

ジハードと死