『官僚制のユートピア』

 

 

新自由主義に覆われた今日の世界のあり方を、(一般的な見解とは異なって)全体主義的官僚制(その最大の王国は米国)と定義し、批判する内容。

全編にわたって非常に面白く、重要なことばかり書いてあるのだが、僕は特にこの官僚制(=

新自由主義)の世界における、想像力の不均衡を論じた、最初の章の論考にひきつけられた。

ここで著者は、自身の人類学者としての、マダガスカルのポスト・コロニアル社会についての知見とともに、フェミニズム理論の成果に多くを負いながら論を展開している。

 

 

『この論考の主要な対象は、暴力である。ここで論じたいのは、暴力によって形成される状況は、官僚制手続きにふつうむすびつけられているさまざまな種類の自発的盲目を形成する傾向にあるということである。ここでいう暴力とはとりわけ構造的暴力である。構造的暴力という言葉でわたしの意味しているのは、究極のところは物理的危害の脅威によって支えられた偏在的な社会的不平等の諸形態である。(p81)』

 

 

この事柄を説明する為に、著者は一つのSF的な寓話を語る。ある惑星で、高度なテクノロジーと軍事力をもった好戦的な種族、アルファ族が、温厚な別の部族、オメガ族の(豊かな資源を持つ)土地を侵略・支配したうえで、支配のための宗教的イデオロギーを作り出してオメガ族の人々に流布する。アルファ族は優秀で美しく正しい故に支配者であり、オメガ族は劣っている故に支配されるのが当然だというイデオロギーだ。支配されたオメガ族の人々を外見的にみると、あたかもこの押しつけられたイデオロギーを信じ込んでいるかのようである。

 

『たぶんある意味で、かれらは本当にそう信じている。だがより深くみると、かれらが本当に信じているかどうなのかを問うことにはさして意味がない。この仕組み総体が、暴力の果実であり、継続的な暴力の脅威でもってのみ維持可能なのであるから。実際には、オメガ族はよくわかっている。もし、だれかが、この財産所有の仕組みや教育へのアクセスに直接に挑戦しようものなら、刀剣がふりかかってきてその人間の頭を切り払ってしまうだろうことは、ほぼ確実である、と。このような事例において「信じる」ということで語られていることがらは、この現実にみずからを適応させるために、人びとが発達させた心理学的技術にすぎない。もしなんらかの理由でアルファ族が暴力という手段を自由に操ることができなくなったとして、オメガ族の人びとがどのようにふるまうのか、どのように考えるのかについて、わたしたちはなにもわからないのだ。(p83~84)』

 

 

 

暴力の脅威に支えられた、このような支配と不平等の構造がもたらすのは、想像力の不均衡という事態だと、著者は言う。

支配される側が、支配する側に対して、生存をかけた鋭い洞察を行い、ときとして、そこに想像力にもとづく人間としての強い共感さえ覚えるのに対して、支配する側、特権を有する側には、支配される側への想像力が働かない。いわば、支配する側(マジョリティー)においてそれ(想像力・人間性)は、構造的に剥奪されているのだ、自分自身が手放さずにいる特権性によって。

 

 

『主人と召使いであろうと、男性と女性であろうと、雇用者と被雇用者であろうと、富者と貧民であろうと、構造的不平等―構造的暴力とここで呼んできたもの―は、例外なく、高度に偏りのある想像力の構造を形成してしまう。おもうに、想像力は共感をともなう傾向がある、とするスミスは正しい。だから、構造的暴力の犠牲者は、構造的暴力の受益者が犠牲者たちを気遣うよりもはるかに多く、受益者を気遣う傾向があるのである。暴力そのものに次いで、こうした[不平等な]諸関係を維持する単一の最大の力が、これ[この想像力の構造]であろう。(p102)』

 

 

著者が呼びかけるのは、想像力の(奪回の)ための、想像力にもとづく、社会体制との闘いだ、と言えばよいだろうか。