『先史学者プラトン』

先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学

先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学

 

 

とにかく面白い本だ。

内容も驚きの連続だし、原著が素晴らしいのだろうが、訳文も、図の置き方など本の構成も至れり尽くせりというほど読みやすい。

内容について、まず驚かされるのは、旧石器時代の文化が、想像を越えて発達したものだったという、これは立証されているらしい事実だ。なかでもラスコーの壁画が、本書では大きな役割を果たすのだが、他にもたとえば、二万年も前の人たちが動物を飼育し、手綱や馬具をつけて馬に乗っていた形跡があるとか、パレスチナのエリコから出土した塔の付いた巨大な要塞風の壁が一万年近くも前のものであるとか、考古学の知識に疎い僕には、驚きの連続である(人間はこんなに大昔から巨大な「壁」を作ってたのかと、ウンザリもするが)。

こうしたことをもとに、著者は本書の前半で、いわゆる新石器革命に重きを置く直線的な進歩史観のようなものに反論を呈するのである。

それは、プラトンの書物に出てくる約一万年以上前についての伝説風の物語(アトランティスと超古代アテネとの大戦争)を、歴史の事実を反映したものとして受けとって、その証拠を探してくるという大胆な手法による。具体的には、紀元前8500年頃に広大な地域(ヨーロッパ全域、ウクライナ、中東、北アフリカなど)を舞台にして行われた大戦争と、その後の洪水や海面上昇などの気候変動によって、それまで存在していた旧石器時代の高度な文化とその痕跡が失われてしまったのだ、という仮説だ。

この大戦争の証拠として、著者は、武器や傷ついた人骨などの戦闘を想起させる出土品が、この紀元前8500年前後という一時期に集中して、上記の広範囲な各地から見つかっていることをあげている。鏃(やじり)や鎌などの、従来は狩猟や農耕に結びつけられて考えられてきた物品も、状況を考えると武器と捉えた方が整合性があるのだという。また、それ以後の時代の埋葬形式や壁画などから、戦勝の記憶と「戦士崇拝」の伝統を読みとっていく。

 こうした著者の観点は、進歩史観に対する循環史観と呼べるようなものだ。技術の発達がもたらす戦争の繰り返しと、やはり周期的に訪れてきた気候変動によって、一定の高度な段階に達していた旧来の文化は、何度も消滅し、また復活を繰り返すのだという考え方。

 著者は、ラスコーの壁画に代表されるマドレーヌ文化と呼ばれる旧石器時代の文化を称揚し、そうした高度な文化や芸術が、やがて大規模な戦争への誘惑に傾くことで堕落し、消滅に向かっていったと語るのだが、こうした歴史への見方(戦争への意志が文化を堕落、消滅させる)は著者の核心にあるもののようだ。

 それは、今の時代の気分に訴えかけてくるものであることは確かである。たとえば、本書の初めの方に引用されている「アトランティス」伝説についてのプラトンの記述を読むと、この大西洋の彼方にあって、繁栄の後に滅亡した大帝国とは、今のUSAの姿を予言したものではないかと思えてしまう(ちなみに原著の出版は1980年代らしい)。

 

『しかし、彼らの内にある神の要素は、死すべき人の子との交わりが増えるに従って弱まってゆき、人間の特性が前面に出るようになると、彼らは節度ある繁栄を進められなくなったのです。洞察力を備えた人の目には、彼らの衰退がいかに深いものであったかは明らかすぎるほどです。他方でなにが本当の幸福かを判断できない者の目には、放任された野心や権力の追求が、彼らの名声と盛衰の絶頂に見えたでしょう。(プラトン『クリティアス』より)』

 

 

 ところで、こうした著者の議論の大きな特徴は、科学的データに基づく考古学の膨大な物証を、神話学の知見を動員して推理しまとめ上げていくというものだ。いわば、神話的想像力の援用による太古の歴史的現実の再構成。

 ここにもちろん、本書の危うさもあるのだろうが、極めて魅力に富むものであることも間違いない。たとえば、ラスコー洞窟の「聖域」に描かれている壁画の意味を、インド=ヨーロッパにあまねく分布している「原初の牡牛」の創世神話に結びつけていくくだり(p169~172)のスリリングさなどは、見事の一語に尽きる。

 遠い昔の記憶(出来事)を語るためには、それに最もふさわしい語り方を編みだすことが不可欠であるという意味のことを、プラトンの書物の登場人物たちは言っているのだが、本書の叙述は、まさにそれを実践しているともいえる。

 

 

 さて、本書の後半では、上記の大戦争から約二千年後、新石器時代に移行して後のある時期(紀元前6000年代)に起きた「遊牧から農耕・定住」へという大きな変化の原因が探られることになる。

 この時期、ペルシャから中東を経て南東ヨーロッパにまで及ぶ広大な地域で、多くの人々が遊牧や狩猟の生活を棄てて農耕にシフトするということが起こった。ところが、この農耕生活というものは、それ以前の生活の仕方と比べて、豊かでも安定的でもなかったことが分かってきたのだという。では、なぜこの時期に人々はこのシフトを行ったのか。

 著者の推論は、それは宗教の力によるものだ、ということである。それまでの原初的で供犠的(デュオニソス的)な信仰を否定して、自然の循環を「正しい道」として敬うような信仰の登場と拡大が、それをもたらした。

 著者はここで、初めての世界宗教とも呼ぶべきゾロアスター教の教組であるザラスシュトラが、紀元前6000年頃に既に存在していたという古い伝承に着目し、さらに大胆な議論を展開していく。

 その内容は、やや思弁的でもあり複雑で、僕には整理することが難しいが、やはり非常に興味深いものだ。

 僕は特に、次のような一節が印象的だった。

 

『だが、地下の神々を表す主題―牡牛、ヘビ、ヒョウ、「踊り手たち」―が時おりのこととはいえ、メソポタミア文化の先導者たるハラフ土器に現れる(とりわけサマッラ土器には悪霊的な形象が現れる)のはどういうことなのか。これらはまったくもってザラスシュトラの宗教の初期において期待できないものだ。かの預言者は、おそらく当時あった自然信仰を糾弾した。実際、この時期の最初の数世紀のあいだ、イラン高原の土器では自然にまつわる主題が見られなくなった。だが、後期アヴェスタのヤシュトによってすでに確認したように、古イランの宗教がもっているディオニュソス的側面は、ザラスシュトラの改革によって和らげられ、あるいは変形されたものの、根こそぎにされたわけではなかった(預言者はそうしたかったとしても)。あるイラン学者は、こうした古代信仰の要素はむしろ「いっそうの高みへと押し上げられ、その精神を浸透させたのである」と言っている。

 同じことは、ミトラ崇拝についても言える。それはザラスシュトラの時代より古いと考えられており、後期アヴェスタのゾロアスター教においても突出した役割も果たしている。先に述べたように学者たちは、この時代の戦士の神の信者が、いつかの時点で、預言者による改革に従事する「十字軍」へと変わったのだと推論している。ミトラを太陽と同一視するようになったのもこれと同じ時期のことだろう(イラン学者のなかには、ミトラはもともと水に関連していたと考える者もある)。 (p362)』

 

 これはもちろん、原初的な信仰の中にあった自然信仰が、ある形でザラスシュトラの宗教に取り入れられ、それが農耕生活という選択、また自然の秩序と「正しい道」の重視という人倫的な、あるいは現在の言葉でいえばエコロジー的な思想にもつながっていったということを述べているのである。 

 だが裏返して言うと、それは、この人倫的なもの、エコロジー的な考え方のなかに、デュオニソス的な荒々しい何かが残存しているということ、だからこそ、それは多くの人々を引きつけ心服させたのだということも意味しているのではないだろうか。

 だとすれば、どんな高度で人倫的な文化の中にも、つねに「野蛮」と戦争への巨大な欲望がうごめいていることを、われわれは常に自覚している必要があるということになるのだろう。

 

 

 最後に、この本を読みながら想起した別の本を何冊か挙げておこう。

 まず、これも最高に面白い歴史の本、ジョナサン・ハリスの『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』。これは、『先史学者プラトン』で扱われたのとかなり重なる地域の歴史の話だが、権力闘争や、文化や民族の移動と混交のあり様もダイナミックに描かれていて、やはりグローバル化した現代世界の状況とオーバーラップするところが多い。たとえば、後にスターリン政権が行なったような国内の少数民族を戦略上の理由などで遠隔地に強制移住させる政策が、はるか昔から行われていたことを知ることが出来る。

 次に、歴史に対する神話的想像力の「奪回」という意味では、石母田正が序文を書いた武者小路穣の名著『物語による日本の歴史』。

 https://arisan-2.hatenadiary.org/entry/20161004/p1

 

 僕はこの本で、古事記竹取物語に内包されている、すぐれて反天皇制的な力を知ることが出来た。

 同じような意味で、戦前の日本児童文庫(アルス)の『日本昔話集』に収められ、弾圧下の羽仁五郎が1940年に書いた「日本文学と歴史」という論考の中に引用した、台湾の原住民の神話、いわゆるセデック・バレの物語(佐山融吉訳)。この日本語訳と紹介・受容は、もちろん日本のアジア侵略と切り離せないものだろうが、同時に、戦時下での抵抗、「反日」のメッセージの表現としても、これを読むことが出来るのではないだろうか(若者たちが苦難の末に太陽を打ち倒す物語だ。)。羽仁のこの文章は、『羽仁五郎歴史論抄』(筑摩書房)に収められている。

 最後に、新井白石の『本朝軍器考』。このなかで白石は、固定して矢を放ついわゆる弩(おおゆみ)や石弓という強力な兵器が、日本ではある時期(源氏と安倍貞任の軍勢が東北で戦った頃)までしか多用されず、その後は次第に姿を消していったことに注目して論じている。このことは、今日の研究では、大和朝廷と他の部族との大規模な戦闘がこの時期に終了し(よく知られているように、安倍貞任蝦夷である)、以後は源平に代表されるようないわば「内輪」の小規模な戦争が主となったことが理由と考えられているようだが、江戸時代前期にすでにこうした事柄に注目していた白石の直観力は、さすがだと思う。