『東アジア反日武装戦線』を見て

先週末、京都市内で『東アジア反日武装戦線』という韓国のドキュメンタリー映画の上映会があり、参加した。

1970年代に日本で起きた有名な一連の事件と、関係者のその後を題材としたものである。監督のキム・ミレさんは、韓国で労働問題を題材に映画を撮ってきた人だが、その彼女がこの出来事について知ったのは、日本に来て釜ヶ崎で「昔、こんな闘いをした人たちが居た」と、偶然に聞いたことによる。

建設労働者であった父親をもち、韓国や日本社会における虐げられた人たちの映画を撮り続けてきたキムさんは、この出来事に強い関心をもち、映画をとるにいたったようだ。

作品では、当時の檄文などと共に、事件の経緯が詳しく紹介され、その中心となった人たちの痕跡や、その後の人生を追って、日本各地で撮影が行われる。それを通して、この出来事についての、日本の権力や社会の対し方のようなものが(他者の眼から)浮き彫りにされていたと思う。

また、被告となった人たちの、その後の思想や心情の変遷、それに彼女たち・彼らを支える、周囲の人々とのつながりに、暖かい目が注がれる。

 

 

上映が終わって、キム監督がトークを行ったのだが、その冒頭で彼女の言った言葉について、ずっと考えている。

それは、この映画の上映は、韓国国内の映画祭や集会の場で何度も行ってきたが、今日のこの場の雰囲気は、それとは全く違う。今日の雰囲気は、まるで殺人者に対してでもいるかのような、ひどく緊張したものに感じる、という意味の言葉だった。これは、かなり強い違和感の表明のように感じられた。

僕自身、ある種の緊張を覚えながらこの場に臨み、映画を見たと思うので、この言葉は心に刺さるものがあった。この出来事に対する時の、独特な心の「構え」のようなものは、何に由来しているのか?

映画では、取材をすすめるうち、日本の社会では(おそらく、運動に関わる人たちの中でさえ、ということだと思うが)、この一連の事件が、タブーになっていると気づいたときの、作り手の違和感が表明されている。

韓国から来た作り手たちは、死刑囚とされた人への面会が認められないというような、制度の冷酷さにも衝撃を受けるのだが、故郷の土地においてさえ、その人たちの存在の痕跡まで消されているような、また刑を終えて出所してきた被告の人たちを地域社会から排除するといった、日本社会の姿に対しても、慄然とする。

まるで、彼女たち、彼らの存在は、(運動を含む)日本社会のあらゆる空間において許容されてはならないものだという了解が、社会の隅々までを覆っているごとくである。

この時のキム監督の言葉は、このタブー化に対する違和感と、重なるものだったのではないかと思う。

 

 

おそらく、「東アジア反日武装戦線」の存在が(特に運動に関わる人たちのなかで)タブーになっている理由は、天皇の暗殺を企図したということもあろうが(いわゆる「虹作戦」について、僕はその詳細をこの映画を見て初めて知った)、それ以上に、爆弾テロによって多くの人を殺傷した、命を奪ったということにあるのだと思う。

それは、どんな目的のためであっても、人命を奪ってはならないという絶対的な規範を蹂躙するものだったゆえに、その後の運動史のなかで否定され、タブーになっていったのだろう。

それは、社会運動の封じ込めと忘却が進んでいく、当時の日本社会全体の動きと同期するものでもあったが、運動内部の認識としては、内ゲバやリンチに象徴される陰惨な体質から脱却し、より人間的なものを目指したいという、当然な希求があったと思われる。

実は、ぼくはこの上映会に行くにあたって、この過去の出来事を自分の現在と接続するには、「東アジア反日武装戦線」の行動や思想のなかに日本の社会や文化の「軍事的な伝統」が内在していることを指摘する他ないと思っていた。「軍事的な伝統」は、上に書いたような運動内部の暴力という形でも当時から露呈していた事柄だし、それは形を変えて(パワハラやセクハラなどの形で)、身体の次元の問題として現在も継続しているものだと思えたからだ。

それで、そういう批判的なことを、上映後の討議の時にも言ったと思う。

 

 

 だが、考えてみると、そうした暴力(「軍事的な伝統」)の否定や、人命の尊さの強調といったことは、あの出来事のタブー化とほんとうに重なるものだろうか。

 そもそも、「東アジア反日武装戦線」の人たちの行動のもととなったのは、戦前や戦時中、そして戦後においても、アジアの膨大な数の人たちの命が、日本の帝国主義や資本によって奪われ続けているということ、そして、その現実が社会から何ら省みられることもないということへの憤りだ。

その結果として彼らがとった方法は間違っていたかもしれないが、こうした現実をこれだけ真摯に受け止めた日本人が、当時極めて少なかった(今はもっと多いのだろうか?)ということも確かである。

その人々が行使した暴力の犠牲者の「命の尊さ」を理由にして、この出来事をタブー化してしまう人たちは、アジアの膨大な犠牲者たちの人命について、このタブー化の厳粛さに見合うだけの受けとめ方をしてきただろうか。そうでないならば、ここには、国内的な人々の死と、他者の死との間の、「命の差別」があることになる。

国内的な暴力が許容されてはならないということを理由に、他者への巨大な暴力を問題にした人々の思想や心情が(タブー化によって)封印されてしまうのなら、それは国家による「命の差別」の一翼を私たちが担っていることになるだろう。

 

 

あの映画を作った人たち(彼女たち、彼らは、韓国国内の外国人労働者の被差別的状況をずっと問題にしてきた)は、私たちが行なっているかもしれない、その「命の差別」に目を向け、おそらくは、慄いているのだと思う。

『日本の政治』を見て

 

いま、神戸映画資料館というところで、戦後の労働組合の映画の特集上映をやっていて、昨日の土曜日はその第一回目ということで、見に行った。

僕が見たのは、1949年に国労が作った『号笛なりやまず』から、1960年の三池闘争の映画までの何本か。

感想は、いろいろあるんだけど、一点だけ書いておくと、これは59年に全逓(この頃の全逓は、最も闘争的な労組の一つと言われてたはずである)が作った、『日本の政治』という、当時の岸政権を批判する内容の記録映画がある。

60年安保の前年だが、この時代はまだ高度成長以前で、日本でも「貧困」(他の映画でも取り上げられていた九州の炭鉱などで貧困に苦しんでいたのは、「日本人」ばかりではなかったはずだが)が政治批判の重要な材料となっていたことも分かる。映画では、岸政権の対米従属姿勢(アイゼンハワーに愛想を振りまきながらゴルフをし、戦闘機などのバカ高いものを買わされて、米国資本と軍事に奉仕することで権力維持する首相の姿)、その一方で、貧困に苦しむ庶民の姿、組合員や教員などに対する右翼の暴力、そして、それ以上に恐ろしい暴力的な集団としての「国家公安警察」(デモ隊役と警官隊役に分かれて、楽し気に鎮圧の訓練をする映像も、今と同じだ。もっとも、「デモ隊」の掲げてるプラカードに「給与を上げろ」と書かれてたのには、ちょっと驚いたが。そういうデモも力づくで抑え込む気だったんだな)などが次々に映し出される。

 

それは、岸の孫が首相として長期政権をやっている今の日本の姿にあまりにも似ているのだが、同時に思うことは、それを批判する描き方も、変わっていないということだ。

それは、進歩がないとか、代わり映えがしないからいけないという意味ではない。

だが、政権批判は、そこでは、かつて戦争を行った日本の社会や、労働者を含む国民自身につながる重さを、必ずしももっていない。

岸の政治姿勢を批判し、「この道はいつか来た道」というナレーションが流れるのだが、そこでオーバーラップされる映像は、今と同じく、ヒットラーである。つまり、岸(そして安倍)という敵の表象は、この天皇制国家日本がかつて行った、実際の戦争に重ねられることは、微妙に回避されている。

続いて映るのは、「広島・長崎の惨禍」であり、あくまで「戦争の被害者」としての国民のイメージだ。被爆した多くの朝鮮人や中国人のことが省みられることは、(今でさえそうななのだから、当時はもちろん)当然ながら、ない。

 

そういうわけで、政権批判の言葉やイメージが、国民自身、私たち自身の加害性への反省に基づくということは、この時代の運動においても、こうしたマクロな局面に限っていう限りは、まるでなかったということがわかる。

こうした批判や抵抗が、天皇崇拝や国民中心主義・排外主義、あるいは経済(豊かさ)絶対主義のようなところに収斂されて衰退していくのは、ある意味、当然なことではないかとも思えた。

炭坑や、鉄道をはじめとした、闘争と生活の現場で無残に敗れ、死んでいった数多くの労働者やその他の人たちのことを考えれば、なおさらそう思えるのである。

『鎖国前夜ラプソディ』


 秀吉の一度目の朝鮮侵略である文禄の役の直前のことだが、まだ禅宗の僧侶だった藤原惺窩は、朝鮮通信使の一員として日本を訪れた許箴之という官吏と筆談で対話する。
 著者の上垣外憲一は、個人のことしか問題にせず、社会に関する思想のない禅宗の思想が、戦乱の時代であった室町・戦国の日本で指導的な理念としてもてはやされたのは自然なことだったという風に書いているが、この対話で許箴之は、道徳・倫理や社会(秩序)構築を重視する儒学朱子学の立場から、形式や規律を無視する(ある意味でアンモラルな)禅宗を信仰する者である惺窩に語りかけたのである。
 その内容は、形式から自由で「臨機応変」という禅の思想の優れた点を認めながら、儒教の古典である孟子の「浩然の気」という言葉を示唆することで(もちろん、惺窩にはその教養があった)、惺窩自身が考えを深めていくことを促す趣旨のものだったという(つまり、決して教条的ではない)。

孟子が、「浩然の気」という場合、それは本然的にある宇宙の生気、ひろびろとしてとらわれのない明るい心を指していて、老荘思想の無や玄に近いし、孟子の浩然の気は、老荘思想に非常に近いところにある。
ところが、孟子は「無心」に近い浩然の気に、「義」や「道」という、儒教的人間社会の倫理を結びつける。
本来なにものにもとらわれないはずの「浩然の気」を、それは義と道に合していないとしぼんでしまう、と孟子はいう。(p54)

おそらくこの対話が、藤原惺窩の思想が、その後の世界史的な激動のなかで、特異な価値を持つものとして形成されていく重要な契機となったということだろう。


本書では、当時の国際的な貨幣金属だった銀や、最重要な軍事資源ともいえる硫黄や硝石の産出・流通をめぐって、日本が世界の中でどのような位置を占め、また振る舞ったかを、生き生きと知ることができる。 
当時の日本は、(スペイン支配下の)南米と並ぶ銀の大産出国であり、また薩摩(なかば独立国ともいうべき存在感を示していた)の領内から産出される硫黄は、いうまでもなくなく火薬の材料だが、朝鮮侵略戦争の戦いの相手である明国への主要輸出(密輸)品でもあった。そこから得られる巨大な財力が、秀吉の侵略戦争遂行を可能にし、また桃山文化の華麗な発展を支えたのである。
いや、既にそのはるか以前、平清盛の時代に、薩摩硫黄島(鬼界が島)で産出される硫黄は、清盛による日宋貿易の主たる輸出品だったという。「鹿ケ谷の謀議」で俊寛ほか三名がその鬼界が島に流されたのも、そこが監視の行き届く場所だったからこそであり、明への留学を志した惺窩がこの島に「漂着」したとされる史実も、実は薩摩の軍事産業的貿易の一拠点であったこの島に立ち寄ることは当初から予定されていたのであろうと、著者は類推している。
マネーと軍事が歴史を動かすのは、今も昔も変わらないのだ。


先にも書いたが、本書で特に印象深いのは、明や琉球、堺、ルソン(スペイン人)、ポルトガル、東南アジアといった地域との交易で栄えた薩摩の存在感だ。
なかでも、島津家の領地だった日向の都城には「唐人町」が栄え、数千人の明の人たちが暮らしていたらしい。商業と同時に、倭寇の影響も、そこにはあった。
その明出身の人々(二世、三世も多かったという)を朝鮮侵略に動員しようとする秀吉の策謀のなかで起きたのが、「梅北一揆」と呼ばれる島津家配下の武将の反乱だった。それに対して秀吉政権は、抜群の行政能力を持つ石田三成を薩摩に送って厳しい処置をとり、島津の武将たちの領地を取り上げて、朝鮮での戦役に功績のあった者たちに知行するということにした。
二度目の侵略である慶長の役で、薩摩勢が目立って奮戦したとされるのは、この「生活のため」という理由からだったのだ。
幕末にパリで開かれた万博に、薩摩は「薩摩琉球国」として、日本国(江戸幕府)とは別個に出展したそうだが、そうした「日本とは異なる国」という意識は、この時代からずっと、鎖国の時代にも底流として流れていたものだという。それを支えたのは、軍事と結びついたものでもある交易であり、戦争や(特に琉球に対する)侵略・支配の連続でもあったわけだ。


この本のもう一人の主人公ともいえる徳川家康にしても、その視野の広さは、信長や秀吉をはるかに上回るほどの国際性を有していたことが語られる(北極海を通ってヨーロッパと北太平洋を結ぶ北極航路の開拓にさえ意欲を示していたという)が、それは、軍事に対する強い関心と不可分のものでもあった(薩摩の琉球侵攻を許可したのも家康だ)。
形式を破壊するかのような「個」や「自由」の論理が支配的であった時代のなかで、その現実と向き合いながら、どのように「平和」や「寛容」の思想が模索されたのかを、この本は垣間見させるのである。

『中動態の世界』

この本は、昨年出版された日本の人文書のなかで、間違いなく最も話題になった本なのだが、僕は正直、途中まではそんなに引き込まれなかった。しかし、メルヴィルの小説『ビリー・バッド』を論じた最後の章の力強さには圧倒された。

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『西南役伝説』


石牟礼道子のこの本は、20年以上にわたって書き継がれた10篇ほどの短い文章からなっているのだが、その中でも「天草島私記」と題された作品は、とびぬけて高い達成を示していると思われる。
そう言えるのは、この作品では、語り手でもある書き手と、対象との距離感が、本書中の他の作品とは明らかに異なっており、書き手である(恐らく)石牟礼自身の狂おしい情念のようなものが、文章に反映されているからである。そのため、この本の他の文章にはみられる、「近代VS非(前)近代」、「市民(プロレタリア)VS民衆(農民)」、「政治VS生活」といった平板な二分法(それらはナショナリズムにたやすく回収されていくものだ)が、ここではその影を薄めることになっていると思う。
この、悩ましい情念の噴出をもたらした重要な契機は、石牟礼の出自にかかわる天草の困窮した農民たちが、江戸末期に南九州の山地に移住してきたという事実への、作者の想像だ。

天草の西海岸をとおって来て“九州本土”に入ると、土のほぐされている深さ、やわらかさがちがう。色もちがう。毛のような草の生える畳半枚ばかりの畠にも、潮の来ぬ間に通る渚の磯道にさえも甘藷や麦を作っていて、それでも人間を養う地(くだ)の足りない天草とは、せつないほどに土そのものがちがうのだ。山から海までの間に広い地(くだ)があることからしてなんという驚きであることか。ここでは草の色さえ、噛めば青汁がほとばしりそうに柔らかくゆたかな色をしていることか。山坂のわきに生いしげる樹々や羊歯の葉や、岩の苔さえも恵みの神の宿った聖なる苔に見えたことであったろう。よか地じゃ、見かけからして天草の痩せ地とはちがう、と思い思い、重い荷物をゆすり直して、登って行ったにちがいない。(p136〜137 「天草島私記」)

このあたりから、石牟礼の文章は、彼女自身の表現を借りれば、憑依的な色合いを帯びていく。
その想像と情念が頂点に達するのは、幕末の弘化一揆の首謀者として獄門に処せられた 或る人物の跡をたどるくだりにおいてだ。

法界平等利益、とは刻み深く、ひろがり無限の文言ではある。その文言の下に彼自身がひらいて見せた現世の凄相をわたしどもは見なければならない。(p167 「天草島私記」)

わたしが生首になって山の方を向かせられたとしたら、魂の眼(まなこ)を項(うなじ)の後に生やしてでも海の方を向く。(p169 「天草島私記」)

そこから、石牟礼は、過去と現在(水俣)とをつなぐ、民衆の抵抗と生命への愛着の根源を見据えていく。それは、たんなる近代批判を越える、内在的で普遍的な生へのまなざしと呼ぶべきものだ。

弘化の天草一揆衆は徳政という言葉で何を訴えたかったのか。幕藩体制の崩壊を受けて、「御一新」を指導した近代的エリートたちが、それを幕藩時代の役人たちより正しく理解したとはとても思えない。前近代の民の訴えたかった心情を、近代社会はさらに棄てて顧みない。それはなぜなのか、どのように捨てて来たのか。永年にわたる自己の疾病のようにこだわり続けてその極限に水俣のことがある。(p170〜171 「天草島私記」)

土地は海と共に、生命の母胎であると共に魂の依る所であり、いわば彼らの一切世界そのものであったろう。それを銀主から奪われるというのは世界そのものを失うようなものであったろう。
 ここでいう世界とは、下層農漁民たちが夢見うる至上の徳と情愛と、理(ことわり)とが渾然一体となった神仏の如きものが宿る深所、そこに魂をあずけて、共に統べられると思える依り代として、経済基盤の今一つ奥に至る現世の足がかり、手がかりとして土地は観念されていたに違いない。(p171 「天草島私記」)

 石牟礼の思想はここでは、マルクス主義を拒絶して、かえってマルクスの思想の精髄に届いているとさえ思えるのである。

『資本論』読書メモ・子どもの権利とラディカリズム

資本論』が書かれた19世紀中頃のイギリスでは、さまざまな労働法制が(数十年にわたる闘争と論議の末に)成立していったわけだが、そのなかでも、工場などにおける子ども(早い場合、6歳頃から)の長時間労働を法律で禁止するかどうかが、大きな問題となっていた。というのも、当時、ほとんどの資本家(工場経営者)は、子どもの労働なしでは経営は成り立たないと考えていたからである。
長い議論の末に、ようやく議会において人々が一致した見解は、とにかく、貧困(それはもちろん、資本主義がもたらしたのだが)の故に子どもたちを工場などの労働力として売り渡してしまう親たちの横暴から、子どもの権利を守らねばならない、という点だった。つまり、資本による搾取からではなく(これでは、資本家側は納得しまい)、親権の暴力から子どもを守るべき、ということで議論が一致し、子どもの長時間労働を禁じる法の制定にこぎつけたというわけだ。
このことについて、マルクスはこう書いている。

しかし、親権の濫用が、資本による未成熟労働力の直接または間接の搾取をつくり出したのではなく、逆に、資本主義的搾取様式が、親権に適応する経済的基礎を廃棄することによって、その濫用に至らしめたのである。資本主義制度の内部における古い家族制度の解体が、いかに怖ろしく厭わしいものに見えようとも、それにもかかわらず、大工業は、家事の領域の彼方にある社会的に組織された生産過程において、婦人、男女の若い者と児童に決定的な役割を割り当てることによって、家族と両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基盤を創出する。(『資本論』第一巻第13章 岩波文庫版(二)p511 向坂逸郎訳)

この文章は、前段では一見すると、資本主義の暴力こそが問題の本質だと言っているように読め、『資本主義制度の内部に・・』に始まる、後段とのつながりが分かりにくい。
 だが、もちろん、マルクスの思想の特質は後段の方に示されている。
つまり、資本主義による『親権に適応する(旧来の)経済的基礎』の破壊を、マルクスは悪いこととは考えていないのだ。それは、この破壊が、親の子に対する、強者の弱者に対する、搾取と支配の構造(それは、資本主義以前からあるものだろう)をあかるみに出し、解体する力を持つものだからだ。家族制度は、たしかに時には、この構造から弱者を守るために機能することもあるが、人類史の中では、むしろその逆の働き方をすることの方が一般的だったのではないか(「母よ、殺すな!」という、「青い芝の会」の横塚晃の叫びが想起される)?
資本主義は、その一般的構造をむしろ代表し、拡張するものであり、それがもたらす矛盾(闘争)の激化が、結果的に、あるべき未来を開く。つまり、『古い家族制度の解体』が、真に解放された、平等な社会の実現を可能にするというわけだ。
マルクスは、たんに資本主義の悪だけを問題にしたわけではない。強者が弱者を支配する構造は、資本主義よりも古くから、あるいはより根底に存在するものであり、資本主義(特に産業資本主義)は、その構造の暴力性を急速に拡大する半面、その解体をもたらす力でもある、という考え。
ここに、マルクス主義の(悪い意味で)進歩主義的な側面、少なくとも資本主義の発展に対する両義的な態度も出てくる。
とはいえ、資本主義という現象を越えて、より根底的な構造の解体を目指そうとする、この傾向自体は、マルクスの思想の最大の魅力ではないかと思う(それは、ルソーにも通じている)。その意味では、中国の文化大革命は、決してマルクスの本道からの逸脱ではなく、その本筋をそれなりに突き詰めたものだったのだと思う。
どれほど大きな災厄をそれがもたらしたからといって、「あれはマルクスの思想の本質とは無縁」などと言ったのでは、彼の思想の核心の部分を受け継ぐことは出来ないと思うのだ。


しかし、では、その末に、未来においてもたらされるとマルクスが考えた『家族と両性関係とのより高度な形態』なるものが、果たして、この搾取と支配の構造を脱しているものなのか。
それらは実際には、真のラディカリズムとは真逆の、強者による弱者の、別様の支配や利用のあり方にすぎなかったのではないか。それが、マルクスの思想に対して批判のなされるところであり、共産主義等々の名を付されたすべての(ラディカルとみなされた)コミューン主義的な思想や運動の実態でもあっただろう。
だが、だからといって、マルクスによるラディカルな告発をなかったことにして、資本主義をはじめとする諸力が支配する暴力的な世界の現実をひたすら追認していくことなど、われわれに許されているはずもない。
搾取と支配の構造からの解放は、「あるべき未来」においてではなく、資本主義の過酷な現実との闘争のさなかでこそ、私たちの中で追求され、少しずつ実現されるべきものなのだろう。