『黒人と白人の世界史』

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本書で著者のオレリア・ミシェルは、「人種」という差別的な概念(第二次大戦直後に、ユネスコなどによって、その非科学性が高らかに宣明されたにも関わらず、現在なお猛威を振るっている)の原型を「奴隷制」に見出している。

人類史にあまねく見出される奴隷制の本質をなす特徴について、ミシェルは、人類学者クロード・メイヤス―が1970年代に提起したという「親族/奴隷」システムという二分法的な理論を採用する。つまり「奴隷」とは、故郷の共同体から引き剥がされ、連れて来られた国の親族(再生産)システムには決して入ることを許されない人間存在のあり方である、というわけだ。

 

 

『奴隷が原則として自身の共同体で働かないとしたら、現役の働き手ばかりでなく子どもや老人の生活の糧を含む、共同体の再生産に必要な労働に参加しないということになる。したがって、この奴隷による生産、この余剰労働は外部への奉仕に向けられる。(p36)』

 

 

『奴隷は生産はするが、再生産のサイクルには貢献できないため、親族としてみなされない。親族性が社会秩序を統制し、集団内での各人の立場と、集団との関係を決定づける社会では、親族でありえないことは、人間性からの永久追放に相当する。これこそが、前述したあらゆる種類の奴隷制を正確に定義づけるものである。親族性から疎外されることは、同族の人、自由人、国民、市民、「人権」をもつ「人間」に与えられる資格、あるいは集団への帰属を定義するあらゆる身分を伝承することができないということである。(p38)』

 

 

こうした「奴隷」という存在を作り上げ、労働力として用いることによって、特に1700年代の西インド諸島プランテーションは巨大な富を生み出すに至る。奴隷制と不可分のものとしての、近代世界資本主義の始まりだ。

だが、この富の創出の仕組みは、奴隷を「人間」ならざるものとして酷使し虐待していることへの罪の意識と切り離せないものであり、そこからその行為を否認し正当化する為に、あるいは、いつか奴隷たちに報復されるのではないかという妄想的な恐怖心の故に、際限のない暴力の増大という悪循環をもたらすものだった。奴隷主たちは、極度に残虐な暴力をエスカレートさせることでしか(「これほど酷い扱いをされる奴らが、人間でありうるはずはない」という理屈によって)、罪の意識や不安から逃れることが出来なかったのである。

 

 

『生産の規模、および植民地経済における奴隷労働の基本的な性質は、徹底した暴力の行使が唯一の社会化の原則になるという、これまでにない状況を作り出した。(p121)』

 

 

『一七五〇年代のプランテーションは、一六六〇年代のそれとはかなり異なっていた。ほぼ一世紀を経て、歯止めのきかない暴力は、絶えず農園主と職工長に妄想をもたらし、トラウマの威力を増していった。サディズム、農園主の神経症的恐怖、奴隷の怒りと恐れとそれらの内在化は、プランテーションに新たな奴隷が来ると常に呼び起こされる可能性があった。(p142)』

 

 

こうして、「ニグロ」という非人間化を正当化するような表象が出現することになる。やがて、プランテーション生産が時代遅れとなり、奴隷制が見かけ上は資本主義生産の主要な装置ではなくなったとき、この表象から「人種」という新たな非人間化正当化(資本主義拡大の為の)の装置が生まれてきたのである。

 

 

『誘惑、怠惰、悪意こそがまさに、ニグロを映し出す鏡が白人に見せているものだから、常に罰を与え、暴力を振るわなくてはならない。自分の立場にとどまる奴隷と違って、ニグロは不安定さを特徴とするからだ。ニグロは状態ではない。だから「ニグロ化」し、再びニグロ化しなければならない。「ニグロの虚構」は常に動く装置、常にくり返すべき装置なのだ。そして、ニグロを作り出すのは暴力であるから、暴力には際限がない。(p149)』

 

 

『いずれにせよ、人種のパラダイムがこうした(19世紀以降の植民地資本主義の為の)再調整―強制移住、政治的権利からの排除、強制労働、住民の隷従、土地支配―に必要な暴力を行使することを常に可能にするのである。(p185)』

 

 

『(前略)人種は、奴隷制によって行われた人間性の根源的断絶―すなわち非親族の生産―の科学的用語による再構築であると考えられるだろう。奴隷制と同様に、人種も自由人と非自由人を指定する。その目的は前者の使用のために後者の労働を獲得することである。また、人種は奴隷制と同様に、絶えず身体的暴力に頼る必要のある象徴的暴力をもたらす。その象徴的暴力はしかも、暴力の行使を正当化し、強制労働に基づく生産の必要性に応えるのである。さらに、人種は奴隷制と同様に、支配するために区別を作り出すと同時に、人種が引き起こす暴力によって再びその区別を覆す。人種はあいまいな概念で、ほとんど無意識であるため、奴隷制よりもさらにいっそう暴力を生み、本来は筋道をつけるべき社会関係を常に攪乱する。(p225~226)』

 

 

このように、歴史を通観しながら、「人種」を(「親族」に対比されるものとしての)「奴隷制」を継承した非人間化の装置として捉える著者の狙いはどこにあるのだろうか?

それは、終章に到って明らかになる。

 

 

『資本主義経済が生み出す無数のプロセスの傍らで、あるいはともに、あるいはそれ以上に、人種は、真の平等を導入するであろう共通の親族性を人類学的な意味で解体する。その真の平等においては、われわれの子どもはみんなの子どもであり、すなわち、われわれはあらゆるよりよい生活条件を子どもたちに与えようとする。親はわれわれみんなの親であり、世界のなかでわれわれの進む道を保障する人たちに、われわれが表す尊敬を受け取る。(中略)この共通の親族性は、子を作ることそのものから自由になり、切り離されるようになるだろうし、否応なく、日に日にそうなるのだ。(p327)』

 

 

『別の言い方をすれば、人種をなくすことは、親子関係にせよ、社会生活にせよ、あるいは経済共同体に関するにせよ、自然という虚構を放棄しながら平等原則を少しでも前進させることである。われわれはそのため、とりわけ生物学的親子関係の役割を最小にするような、親族性のシステムの進化を受け入れなければならない。(p327)』

 

 

つまり、著者は、(メンバーシップの条件としての)親族性という概念を、「真の平等」を保障するようなものへと途方もなく、無条件的なまでに拡張することを提起しているのである。訳者あとがきにあるように、その拡張は、「生物学的親子関係」の相対化に留まらず、ヒトと他の動物(あるいは機械?)との境界さえ越えてしまうものでありうるだろう。

 

 

この提起への賛否は保留するとして、ここでは最近鑑賞した二つの創作作品を参照しておきたい。それはJ・M・クッツエーの小説『恥辱』と、ペドロ・アルモドバルの映画『パラレル・マザーズ』だが、この二つの作品には共通するテーマ、すなわち、集団レイプによって妊娠した女性が、その子を出産し育てていくことを決断するという事態が描かれている。

まず『恥辱』についてだが、教え子の女子学生から性暴力(レイプ)を告発されて職場を追われた主人公の大学教授デヴィッド・ラウリーは、自分の行為については罪の自覚がないのだが、農場で暮らす娘から、上記のような決断(選択)をしたことを告げられて、まったく理解できず途方に暮れる。

 

『「子どもは産むということだな?」

 

「ええ」

 

「あの男たちの誰かの子を?」

 

「ええ」

 

「なぜだ?」

 

「なぜ?わたしが女だからよ、デヴィッド。子ども嫌いだとでも思うの?父親が誰だからという理由で、その子を拒めというの?」(『恥辱』 鴻巣友季子訳 ハヤカワepi文庫 p304~305)』

 

 

この小説を読んだ時、僕もこの娘の選択を理解できなかった。

だが、いま考えると、「父親が誰だからという理由で」、自分の娘である女性の出産の決定に口出しをするという態度は、端的に家父長制的なものではないだろうか。妊娠させたのは無論、男の罪だが(この父親も教え子に同様の行為をしたわけだ)、その結果妊娠した子を出産するかどうかは、当の女性以外、誰が決めるのだ。

この基本的な認識が、僕には(家父長制的な理解の枠組みの故に)欠けていた。

『恥辱』は、この面においては、アパルトヘイト撤廃直後の南アフリカの混沌とした状況下における、父親(やや高齢の白人インテリ男性)と、その大地に根付いて生きようとする娘との、他者同士としての和解、あるいは出会い直しの経緯を描いた小説としても読める。

 

『「もう愛情はあるか?」

 

 そう言ったのは彼だが、口から出たとたん、自分で驚く。

 

「この子に?いいえ。どうして愛せる?でも、愛するようになるわ。愛情は育つものよ。その点は、母なる自然を信じていい。きっと良い母親になってみせるわ、デヴィッド。良き母、善き人に。あなたも善き人を目指すべきね」

 

「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」

 

善き人か。この暗澹たる時代に、わるくない心構えだ。(同上 p331~332)』

 

 

一方、映画『パラレル・マザーズ』は、二人のシングルマザーの赤ちゃんの取り違えと、スペイン内戦時の虐殺の犠牲者の遺骨発掘による社会的正義の回復という二つのテーマを、やや強引に接続させたとも思える異色の作品である。

だが、この接続には、もちろん重要な意味が込められている。

年少のシングルマザーの一人、アナは、やはり集団レイプによって妊娠した子どもを出産する。もう一人のヒロイン、ジャニスは、内戦の頃のことになど興味がないと軽く言うアナに対して、「自分の国の過去の出来事(フランコ派による共和派の虐殺)を知ろうとしなければ、未来に展望もない」と強く批判するが、その口調の強さは、「取り違え」の事実を知っていながら、その事実をアナに打ち明ける勇気を持てない自分自身への苛立ちの表れでもある。

遺骨発掘が主題となる後半部では、こうした切実な葛藤を乗り越えて、正義と平等の実現される新たな社会を作ろうとする女性たちの連帯の姿が、男性同性愛者であることを公言している監督のリスペクトを込めて描かれるのだが、その社会を担って行くべき集団(「親族」)の中心部には、アナとその子の姿が映し出されるのである。

暴力に抗い、葛藤を乗り越えて、歴史の中に立ち上げられようとする、開かれた未知の集団性。これこそが、オレリア・ミシェルが本書で提示した「共通の親族性」のあり方のモデルと呼べるものではないだろうか。