暴力と障壁

http://www.j-cast.com/2012/09/26147826.html


朝鮮日報の記事が、侮蔑的だと話題になってるというので読んでみたのだが、どう読んでも日本のマスメディアの差別性や煽情性の方が千倍酷い。
まあ、『韓国を代表する一流紙の朝鮮日報なのに、三流のゴジップ紙でも書かないような内容』とあるので、三流ゴシップ紙並みの日本の大新聞や大手週刊誌と比べるのは、さすがに失礼ではあろうが。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/25/2012092501635.html


差別性や排外主義的な傾向、本質主義的な誤謬のようなものの「酷さ」を比べることに意味がどれほどあるか分からないが、自国の言論状況の酷さを棚に上げて隣国のメディアの瑕疵だけを論うというのは、それが排外主義の言論というものに他ならないのだから今更言っても始まらぬが、滑稽千万というしかない歪み様だ。


周知のように、日本の全国紙や週刊誌、テレビ、ラジオのなかには、上のものとは比べ物にならない極右的・扇情的な報道を毎日、毎回流し続けているものが、少なくない。
のみならず、(朝鮮日報の記事がとりあげている)排外デモや政治家たちのあからさまな差別や歴史委曲の発言、さらには大阪市長に代表されるような公然たる個人への攻撃やハラスメント的言動といったものを、明確に批判することなく、ただ第三者的に「報道」するだけの日本のほぼ全ての「全国紙」、マスコミの姿勢・体質こそが、日本社会の急速な右傾化の主要な要因のひとつであり、それが両国の関係の緊張と対立を作り出していることを、われわれははっきり自覚しなければならない。
要するに、関係が緊張している隣国の新聞記事が差別的・扇情的である場合があったとしても、自国の側の言論の酷さをちゃんと批判するのと共に行なうのでなければ、それへの批判はたんに排外主義の実践に終るのであり、今のこの話題の語られ方というのは、まさにそれであるということだ。
まあ、分かりきったことだけど。


以上のことを踏まえたうえでだが、なるほど、たしかに朝鮮日報の記事も、もちろん誉められたものではない。
これがたんに、「日本の政治家なり、排外デモに参加したり共感するような一般人の言動や行動は、恐ろしいほどに加虐的である」というのであれば、事実を端的に述べたというだけのことだが、それを民族(国民)的な「本能」なり、「遺伝子」なりに結びつけて語るとなれば、これはもう差別や排外主義の範疇に入ることになる。
民主化運動弾圧の片棒を担いできたような新聞を「一流紙」と呼びうるかどうかは別にして、それなりの権威と発行部数を持つ新聞の記事にしては、論旨がお粗末でもあり、批判を受けること自体は(それが日本のネット右翼によるのでなければ)当然であろう。


だが、そうした差別や排他的民族主義を煽る傾向には、(それはこの朝鮮日報の記事を見る限りでは日本の右翼的なメディアの言論におけるよりははるかにマシなものであるとはいえ)やはり批判を向けておくべきであるにしても、こうした言論が出てくる底にあるもの、またこうした物言いや態度が帯びている暴力性の性格について考えることは、相手の国をよく理解するためにも、それ以上に自国である日本のあり方というものを明確に認識するためにも、是非とも必要なことだ。
その過程なくして、「真の和解」などというものに近づくことは出来ないのは明らかであるから。




日本の植民地主義の暴力と、分断体制が生み出してきた軍事主義的な暴力と抑圧とが、韓国の社会、いや朝鮮半島全体を苦しめてきた暴力性の、主要な根をなしていることは間違いないだろう。
現在の日本社会の右傾化は、前者がまったく和らいでいないことを示しているのであり、それが後者をも、結局は固定化させている。
この二つの現実的な力、そこに現在ではもちろん国際的な資本の暴力も加えねばならないが、そうした力に囲まれて存在し、規定されているところに、韓国の人たちの歴史的・現実的に特有な生のあり方があり、そのなかに暴力という具体性もある。
ここでは暴力は、軍事体制や、強権的・権威的な秩序意識というような、露骨なあり方をとって、人々の生を脅かすことになる。いわば、暴力は人々の前によく顕れていて、「身近」である。
暴力をもっぱら他者や他国に差し向けることによって、自らにとってそれを顕れにくいもの、縁遠いものであるかのように装ってきた、旧植民地本国である日本の社会とは、この点が好対照だと言えよう。


だが同時に、そのような歴史的・政治的現実を考えるなら、この韓国社会における「暴力」なるものが、たんに人間性の抑圧や生命の否定を意味するものではなく、抑圧からの解放や、権力への抵抗という意味合いをも持つものとして働いてきたという両義性は、認めるべきだ。
実際、日本による植民地支配との闘いも、軍事独裁政権や反動的な権力への抗議と抵抗も、時に悲惨な結果をも生み出してしまうような「実力」の行使によって遂行されてきたことを、ぼくらは知っている。それらは、そのもたらしたものの中にはそれに反するものがあったとしても、基本的には生命や人間性のための行動であったという事実を、ぼくは認めないわけにいかない。


というよりも、韓国の場合、人々に押し付けられた暴力のエネルギーは、抵抗や民主化運動へと差し向けられ続けたことによって、解放と結びついたものとして常に人間化され、日本の「暴力」のような右傾化、レイシズムと国家による抑圧への同一化に帰結するものとは、異質な相貌を帯びるに至っている。
いわば、人々の絶えざる抵抗の営みが、「暴力」に人間性なり生の肯定という性格を与え続けたのであり、この抵抗が続いていく限り、そしてこの抵抗の中でのみ、暴力はこの国では人間の解放に従属するものという側面を失わない。


たしかに、それがこのような性格を持つものであるとしても、朝鮮半島という土地に、植民地主義や分断体制によって植え込まれ育まれてきた、「暴力」による非人間化・生命否定への脅威の大きさは、決して過小に考えるべきものではない。
そこにわれわれが、暴力による巨大な悲惨とその可能性を見ないことは(決して、そこに住む人たちが特に暴力的だという意味ではないが)、見るべき現実から目を反らせることであろう。
だがそれは、過去も現在も、日本やアメリカや国際資本の、ときにはお上品な、非暴力的(暴力抑圧的)な顔をした暴力の圧力によって、備給され続けているものでもある。
朝鮮半島に住む人たちは、この外からの支配的な暴力の圧迫と、自国の内部に植え込まれた暴力の両義性という、二重のものと闘いながら(やりとりしながら)、生を紡がざるをえないのだと思う。




ところで、上の朝鮮日報の記事のなかでは、特に最終部で、粗雑な論理と表現によってではあるが、日本の歴史的な像の持つ脅威が語られていると思う。それは、差別的で本質主義的な誤った表現と思考法によってではあるが、韓国(半島全体)の人たちが受けてきた、日本による「外からの」暴力の圧迫の大きさを物語っているのだと言えよう。
つまり、われわれが暴力をいわば「外注」することによって見ないようにしてきた、過去と現在のわれわれの集団的な実像が、そこに映し出されていると見るべきである。
ここで留意したいのは、次のようなことだ。
近世以後の日本と朝鮮半島との関係を考えるとき、秀吉による侵略と、明治以後の植民地化や支配との間に挟まれた、江戸時代の関係の良好さが強調され、それは良いとしても、そこから「本来は平和的である日本文化」というような(上記とは逆向きの)本質主義的なイメージが語られる場合がある。
だが、その江戸時代の「平和」なるものが、支配権力に対する民衆の非武装(対抗的暴力の放棄)を意味する内閉的なものでもあったということと、したがって支配者の「実力」の前での人命(の価値)の全否定(切り捨て御免)を含意するものだったという事実は、忘れるべきでないだろう。
そこからは、権力が認めた者以外にも「生存する価値」をあえて認めるというような、国家に対して自立的な精神が生じる余地は、きわめて少ないはずだ。
そうした精神によって形成される社会は、他国の人々にとっても、大きな脅威の土台となりうるものである。同時にそれは、国家の壁に阻まれて、民衆間の連帯が成り立ちがたくなる理由ともなる。
こうした日本の側の歴史的に構築された条件が、日本とアジアの人たちとの間の不信や憎悪の、遠因の一つとなっている可能性は、大きいと思われる。


朝鮮日報の記事の内容は、そこから差別や悪しき本質主義の要素を抜き取って考えるなら、日本が朝鮮半島の人たちに加えてきた暴力や脅威の影であるというばかりではなく、それにはこのような歴史的に構築された土台があるのだという、他者からの示唆なのである。
われわれがなすべきことの重要なひとつは、こうした土台、つまり構築されてきた条件を自覚化して、より普遍的な連帯のための新たな条件を個人の内と外に作り出していくということである。
そうするより他に、連帯や和解への道はない。
ここで言う「普遍性」とは、当然ながら、人間の解放や生存を阻むあらゆる現実的な障壁への敵対によってだけ見出せるようなもののことだ。
この障壁の国際的にも有力な基礎の一つは、われわれの生の内側と外側とに深く突き刺さっている。だがだからこそ、それを揺るがすことが出来れば、壁の向うの他者たちの生の解放の道も、さらにいくぶんかは開けてくるはずである。