クッツエーの三作品

 このところ、J・M・クッツエーの小説、『恥辱』(1999年)、『鉄の時代』(1990年)、それに『遅い男』(2005年)を立て続けに読んだ。

 クッツエーの小説は、以前に『マイケル・K』(1983年)を読んで、非常に良かったのだが、その後に『夷狄を待ちながら』(1980年)というのを読んだら面白くなくて、途中でやめてしまった。

 今回、思い立って、上記の三作を読んだら、やはり面白かった。ポストモダン色の強い『夷狄』以外の4作は、語り口など大幅に異なる面があるとはいえリアリズム的(現実的と言ってもよい)な手法なのは共通してるので、僕には、そういう小説しか理解できないのかも知れない。

 クッツエーは、周知のように南アフリカ出身の白人作家だが、ノーベル文学賞を受賞した21世紀初め頃にオーストラリアに移住した。それで、上記の中では『遅い男』がオーストラリア移住後の作品であり、舞台も南アから豪州に変わっている(『マイケル・K』は架空の土地が舞台とされてるが、南アがモデルなのは明白)。

 これらの作品に共通して描かれている「現実」というのは、南アフリカもオーストラリアも、「植民者が作った国」であるということに関係している。クッツエー自身は、そのことに自覚や誇りも持っているが、もちろんアパルトヘイト体制を含めて、そういう暴力的な社会を作り出してきた(また、それによって生み出された)自分たちの内面の「空虚さ」のようなものを、ずっと掘り下げ続けている作家だと思う(それは、ポストモダン的な作品でも同じだったのだろう)。

 今回読んだ三作品では、そのことが、男性中心主義批判(フェミニズム)の視点に深く重ねられていたり、また特に『恥辱』においては「動物の命」というテーマにつながってたりするのだが、大枠としては変わっていないのだと思う。

 これほど、自分にとって身近なテーマを扱っていると実感させる有名作家を、他に知らない。

 

 

『「子どもは産むということだな?」

「ええ」

「あの男たちの誰かの子を?」

「ええ」

「なぜだ?」

「なぜ?わたしが女だからよ、デヴィッド。子ども嫌いだとでも思うの?父親が誰だからという理由で、その子を拒めというの?」(『恥辱』 鴻巣友季子訳 ハヤカワepi文庫 p304~305)』

 

 

『「もう愛情はあるか?」

 そう言ったのは彼だが、口から出たとたん、自分で驚く。

「この子に?いいえ。どうして愛せる?でも、愛するようになるわ。愛情は育つものよ。その点は、母なる自然を信じていい。きっと良い母親になってみせるわ、デヴィッド。良き母、善き人に。あなたも善き人を目指すべきね」

「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」

善き人か。この暗澹たる時代に、わるくない心構えだ。(同上 p331~332)』

 

 

『(前略)なぜわたしが母親の思い出に執着するか。理由は、もしも彼女がわたしに生命をくれなかったら、だれも生命をくれなかったから。わたしが執着するのはたんに母親の思い出にではなく、母親自身に、母親の身体に、その身体からこの世にわたしが生まれたことに対してなの。血と乳として母親の身体を飲み、わたしはこの世に生まれた。そして盗まれ、それからずっと、失われていたのよ。(『鉄の時代』 くぼたのぞみ訳 河出文庫p161~162)』

 

 

『わたしのなかにあるのは死だけではないのよ。生もあるの。死のほうが強くて、生は弱いけれど。でもね、わたしの責務は生に対するものよ。それを生かしておかなければならない。絶対にそうしなければ。(中略)誤解しないで。あなたは息子よ、だれかの息子。わたしは息子たちに反感をもっているわけではないの。でも、生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがある?男の子だか女の子だか、見分けなんてつかないんだから。(中略)生と死を分つ差異はごくごく些細なもの。でも、ほかのものはすべて、曖昧なものはすべて、強く押せば譲るものはすべて、弁明の余地なく廃棄される。わたしが問題にしているのはその、弁明の余地すらあたえられないことなのよ。(同上 p213~215)』

 

 

『これは不要な複雑さかしら?わたしはそうは思わない。文章のふくらみというのか。呼吸と一緒よ。吸って、吐いて。ふくらんで、しぼむ。生命のリズムね。ポール、あなたもっと充実した人間になれるのに、もっと大きくもっとふくらみを持てる人なのに、自分でそれを許そうとしない。だから強く言っておくわ。思考の流れを途中で断ち切らないで。最後まで追っていくこと。思考と感情の流れを。それとともにあなたは成長する。(『遅い男』 鴻巣友季子早川書房 p193)』

 

 

『「(前略)言語に関して言えば、わたしにとっての英語はあなたの場合とはどうしたって違う。流暢さとは関係がないんだ。お聞きのとおり、わたしの話す英語は流暢このうえないだろう。しかし英語をものにするのが遅すぎた。母さんの母乳のように自然なものではなかったからね。実をいうと、まったくなじんでないんだ。内心では、いつも腹話術師の人形みたいに感じてる。わたしが言葉をしゃべっているのではなく、あくまでわたしを通して言葉が話されている、とね。英語はわたしの芯の部分、モン・クールから出てきていない」と、ここで彼は言いよどみ、踏みとどまる。“わたしの芯はがらんどうなんだよ”。そう言いそうになる。(後略)(同上 p242~243)』