吉川幸次郎『杜甫私記』

この本は1980年に出たものだが、内容は、1950年著者の吉川幸次郎が40歳の時に刊行された「杜甫私記」と、その約15年後に発表された続編「続 杜甫私記」とを併せたもの。

以下の引用は、いずれも「杜甫私記」の方からとっている。

杜甫という人は、50代の後半に死んだようだが、ずっと官吏の職にありつけず、各地を放浪したりした。結婚して子どもをもうけたのは、40歳を過ぎた頃だったろうと言われている。それでもまだ官吏になることは出来なかったのだが、44歳の時、ようやく下級官吏の仕事にありつくことが出来た。時あたかも、安禄山の反乱が起き、栄華と退廃を極めていた玄宗皇帝の治世が未曽有の大動乱へと突入していく、その同じ年のことである。

そんな時に、やっと職に就くことの出来た杜甫は、おそらくは生活上の事情から親戚のところ(多分)に預けていた妻子に会うため、奉先県という所へ小旅行をする。その時に作られたのが、有名な長詩「京より奉先県に赴くときの詠懐五百字」である。

その詩の最後の方で、杜甫が妻子の所にたどりついてみると、五人居た子どもの一人が飢えによる栄養失調のために亡くなっていたという。

貧困のために幼いわが子を死なせる。カール・マルクスと同じ経験を杜甫もしたのだ。

杜甫は、その悲しみと感慨を切々と吐露するが、そこでこの詩を終えるのではなかった。

若き吉川幸次郎による訳と注釈を読んでみよう。

 

 

『しかし忠厚な詩人は、わが身の上の悲しみを、わが身の上にのみ留めることはなかった。わが身の上の苦しみによって、ひろくあめの下の不幸な人たちの苦しみを、おしはかる。

 

 

生常免租税  生きては常に租税を免れ

 

名不隷征伐  名は征伐のうちに隷(い)らざるに

 

撫跡猶酸辛  跡(み)のうえを撫(かえ)りみては猶お酸辛(さんしん)をいだく

 

平人固騒屑  平(つね)の人は固(まこと)に騒屑(しどろ)なるべし

 

默思失業徒  黙して失業の徒を思い

 

因念遠戍卒  因りて遠き戍(いくさ)の卒(おのこ)を念えば

 

憂端齊終南  憂わしき端(ふし)は終南のやまにも斉(なら)び

 

澒洞不可掇  澒洞(こうどう)として掇(おさ)む可からず

 

 

おのれは士族のはしくれであるだけに、納税の義務もなければ、兵役の義務もない。それすらこうした悲しみを抱くとすれば、一般人の悩みはいかばかりであろうか。

かく家国の将来に対する痛烈な憂慮をもって、五百字の長詩はむすばれている。

 

吉川幸次郎杜甫私記』 1980年 筑摩叢書 p196~197)』

 

 

繰り返すが、この吉川の文章が書かれたのは1950年だ。

そこに、当時の日本の世相と筆者の感慨が重ねられていることは想像にかたくない。特に、「家国の将来」への憂慮、というような表現がそれをうかがわせる。

僕は、そこにはあまり共感しないが、ひとりの人としての杜甫の切実な感情が、詩を作ることのなかでおのずから見出していった流れの先に、「他者」である民衆の痛苦が、海のように見いだされたのではないかと思う(本当の普遍性とはそういうものだろう)。

「失業」の意味は、もちろん近現代と同じはずはないが、それが底辺の人々の苦境を示す語であることに違いはないだろう。

この長い詩は、杜甫自身にとっても、また中国の文学史のうえでも、画期をなすものであったという意味のことを、吉川は述べている。

 

 

もう一つ引いておきたい。

もう少し若い時期に書いたと思われる、「韋左丞丈に贈り奉る二十二韻」という詩の冒頭部分についてだ。韋左丞丈というのは、杜甫の親戚にあたる、位の高い官僚だったようだ。

その詩は、こう始められている。

 

 

『紈袴不餓死  紈(しろがね)の袴(はかま)はきたるものは餓えて死なず

 

 儒冠多誤身  儒の冠は多(しばしば)身の誤(さまた)げなり

 

 

 紈袴(がんこ)とは貴族の子弟を、その服装によって呼ぶ言葉である。そうした特権階級のもつ特権を、「餓死せず」でいい現しているのは、思い切ったいい方であるとせねばならぬ。詩の重量は、第一句に於いて、既に十全である。これに反し、儒の冠をかぶって先王の道を説くものは、常にうだつがあがらない。(同上 p82)』

 

 

貧困ではあっても、杜甫は官僚を目指すことの出来る階級に属する人間だった。

だから、彼にとっては民衆は、そもそも「対象」にすぎない存在だっただろう。それが真に「他者」として見いだされるには、上に触れたような体験と、詩作の営為が必要だったのだと思われる。

だが、詩作を拠り所とした彼の生きる姿勢は、常に民衆のそばにあるものだったとも言えると思う。

「餓えて死なず」という表現の激しさは、やがて来る、彼自身と家族の痛苦を予見しているかのようである。