中上健次再考(黒川みどり『創られた「人種」』から)

 前回も書いたように、最近、南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツエーの小説をいくつか読んだのだが、クッツエーに関して、デビュー直後の1980年代前半ごろまでは、当時の世界の文学界の流行もあって、(日本では特に)その作品は南アフリカの政治的現実(アパルトヘイト)から切り離して受容されることが多かった、という解説を読んだ。当時は、ポストモダンとか、マジック・リアリズムラテンアメリカ文学について)と呼ばれる技法上の流行が、商業的な意味からも重視され、作品の政治的背景のようなことは、なるべく考えないようにされていたと、僕自身の読書経験(80年前後は中上フリークだった)を振り返っても、たしかに思う。

 それで、当時の日本の代表的作家だった中上について、この面から考え直したいと思っていたところ、たまたま図書館で見かけた黒川みどり著『創られた「人種」』(2016年)という本の第四章で、中上文学のそうした側面について論じられてたので、読んでみた。

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まず、中上自身が被差別部落の出身であることについてあまり語らなかったことや、また作品の中でも特に「路地」という語を用いていたことなどに触れた後、端的にこう書かれている。

 

 

『中上はそれでよかったのだろうか、中上の独特の文体に加えて、以下に述べるようにあえて「政治」を忌避し被差別部落をおおむね「部落問題」として語りたがらなかったことが、数多くの読者を獲得することに成功した反面、被差別部落という主題への理解から遠ざけたのではなかろうか。また、「被差別部落」ではなく「路地」と称されたことそれ自体が、作品への接近を容易にした一方で、被差別部落を見据えずに済まされたつもりになるという弊をも孕んでいたのではないだろうか。(p189)』

 

 

『しかしながら、(中略)彼が文学作品と離れて語ったものを読むと、中上は実に真正面から“部落問題”に向きあっていたことを確認しうる。 

部落解放運動の要求を請けて、一九七〇年代後半から同和対策事業が進展していったことは、一面で、被差別部落市民社会に包摂されていくことでもあった。中上は、ほかならぬこの「市民社会」とその一員になることへの根源的な批判者として立ち現われたといえよう。(p189~190)』

 

 

 さらに、こう書かれている。

 

『同和対策事業によってあたかも「差異」が打ち消され、同時に差別もないかのごとくにみなされてしまいかねない状況がつくり出されているからこそ、中上は、果たして「差異のない」ことが差別のないことにつながるのかを徹底して問うた。高澤秀次が、「中上が恐れたのは、差異をなし崩しにされた上で、隠微に差別意識が内包するという最悪の事態である。新宮市春日の路地の再編=解体にあたって、中上の抱いた危機感の本質はそれだった」と指摘しているように、それは、「路地」が消えて「市民社会」に呑み込まれていくことが果たして差別を解消するのかという問いであった。(p210)』

 

 

つまり、「同和対策事業」によって「路地」が解体され、「差異」が消滅して「市民社会」に吸収されていくなかで、そのことによって「差別」もまた消滅するというわけではなく、それは他ならぬ「市民社会」のなかに隠微に根深く内包されていくのだという危機感が、中上の文学と発言・行動の根底にあった、という指摘である。

中上の小説を愛読していた当時の僕が、作家自身のこのような危機感を感じ得ていたかというと、まったく出来ていなかったと思う。そして、それは当時の文壇や論壇、日本社会の一般的な理解(消費)の水準でもあったと思う。

これは蛇足になるが、論者の黒川がここで「同和対策事業」がもたらしたものと規定している、「差異」の消滅や、「市民社会」への同化・吸収といった事態は、世界的な文脈でいえば、経済や政治のグローバル化の進展による事態と捉えることが出来るのではないかと思う。黒川はこの章で、この時期の趨勢を「人権の時代」という語によって批判的に捉えているのだが、その意味は、差別や搾取を構造的に生み出すような現実を直視する「政治」的な視点が忌避され、「差異」の消滅によって「差別」そのものも消滅するかのような幻想に人々が閉じ込められて、差別に抵抗する力も生きる力も奪われた極度に管理的な社会が実現することへの危機感だろう。

それでは「人権」という言葉を、あまりにも外在的に捉え過ぎではないかとも思えるが、しかし、実際に日本の行政や社会の支配層が実行してきたことは、たしかに「人権」という概念の盗用(外在化)による、人々の政治的無力への閉じ込めに他ならなかったのではないかと、最近の、飯山由貴《In-Mates》に対する東京都人権部の対応などを見ていても実感せざるを得ないのである。

https://www.art-it.asia/top/admin_ed_news/229861/

 

 

『創られた「人種」』に戻ると、中上の最も政治的なテクストとも呼べそうなルポルタージュ紀州』の一章から、次のような文章が引用される。

 

『例えば、或る日或る時、市民なり庶民なりの生活の存続がおびやかされ恐慌状態になる事が起きたとする。関東大震災のような天変地異でもよいし、食糧危機でも円高による経済の破綻でもよい。市民や庶民がそれを切り抜けるには敵がいる。関東で起こった大震災の時、井戸に毒を入れに来るとデマ宣伝で次々に殺されたのは朝鮮人であったが、この紀伊半島紀州で、もしそのようなことがそっくり起こるとしたら、市民や庶民は敵をどこに求めただろう。(p211)』

 

 

そして、黒川はこう書く。

 

『すなわち、いざ危機が生じればかつて朝鮮人を虐殺したと同様、被差別部落民に向かいかねない「市民」「庶民」への強烈な恐怖と不信の表明にほかならなかった。中上は、「私の想像する被差別部落民虐殺と朝鮮人虐殺は、説明の手続きを無視して言えば、不可視と可視の違いである」とし、「私がありありと視るのはこの不可視の虐殺、戦争である」いう(ママ)。そうして彼は「路地の家並みが全部入るように向けて、写真を撮る」のであるが、「私の“戦争”はこの一枚の写真の中にもある」といい、「路地」のなかに、“戦争”“虐殺”が及びうる可能性を見るのである。繰り返すまでもないが、差別が不可視化されつつある「市民社会」のなかに実は潜む差別の延長線上に、しばしば国家権力とも結びつく“戦争”“虐殺”があることを彼は感知しており、そのことの警鐘を発してやまなかった。(p211)』

 

 

また、「路地」の解体後に書かれた中上の代表作の一つ、『千年の愉楽』からは、次のような一節も引用されている。

 

『それがよい徴候なのかどうか分からない。オリュウノオバは考えていた。誰も昔やった事を謝った者はない。四民平等だと言うがひと度昔のように物資が不足したりかつてあった震災のような事が起ると皆殺しに会うのは見えている。朝鮮人が多数いきなり理由なしに殺されたにもかかわらず新日本人とされたのと同じような意味が、四民平等に入っている。(p229)』

 

 

「誰も昔やった事を謝った者はない。」

この危機感を中上が書き続けていたことを、僕はまったく読みとれていなかったと、今にして思う。

 

 

ところで、こうした日本の「市民社会」の、自らの差別性に対する鈍感さに絶望した中上が(この作家・男性が他の面では生涯持ち続けただろう差別性は、また別の問題だ)、救済の道としてすがったのは、文学的・美学的・想像的な領域、なかんずく「天皇」の存在だった。

ナショナルな「市民社会」と、それに深く結びついた「政治」の限定的な性質に嫌気がさした末に、「天皇」に救済を見出すというのは、石牟礼道子の辿った道にも似ているが、それについて、この章の(そして本書全体の)最終部で、黒川はこのように書いている。

 

中上健次は、天皇を軸とした「日本」に部落問題の「無化」を描いた。“夢見た”という方が正確かもしれず、それはリアリティをもたないことは中上も承知していたはずであり、にもかかわらず彼はそうするしかなかったのであろう。とすれば、私は、丁寧に真の「無」を求め続けていくという、「不断の精神革命」をめざして歩むしかないだろう。それは、ほかならぬ自分の所属する集団以外の、すなわち自己の利害に関わること以外のことについての差別の不当性を認識し、それに立ち向かうことのできる普遍的な人権の希求であらねばならない。(p254)』

 

「差別」の真の「無」に向っての永久革命。言い換えれば、「人権」という不可能なほどに過酷な概念の絶えざる、永久的な普遍化、内在化の為の、真に政治的な闘争。

進むべき道はそこにしかないだろうと、僕も思う。