『テロルはどこから到来したか』

impact-shuppankai.com

これも鵜飼哲さんの、2020年4月に出版された旧著になるが、買って読んだ。

今はなき雑誌『インパクション』に掲載された文章を中心に(あとがきでは、インパクト出版会の須藤久美子さんに対して、特に謝意が述べられている)、80年代後半のものから近年のものまで収録されていて、どの文章も刺激に富んでいる(日本の死刑制度についての講演などは、特に重要だと思う)が、とりわけ主題になっているのは、2015年1月にパリで起きた「シャルリ・エブド襲撃事件」の背景と余波である。

この事件について、鵜飼さんは、殺害された「シャルリ・エブド」の漫画家やジャーナリスト、学者たちと、襲撃を行った青年たち、双方に寄り添う形で繊細な分析を行っている。「シャルリ・エブド」は、事件当時の僕の印象としては、「表現の自由」を盾として、イスラム教徒の心情を傷つける酷い風刺漫画を載せる雑誌というイメージがあったが、この本で読むと、湾岸戦争の頃の創刊当時には、米国を中心とした湾岸戦争に明確に反対し、また、反ネオリベ反核・反原発の主張を含むなど(そういう主張をしてた人たちも、この事件で命を失ったのだが)、元来はフランスの左翼の中でもしっかりした発信を行なっていたメディアだったことが分かる。それが、2001年の「9・11」を契機に、親イスラエルに転じるなど、次第に変質していった。とりわけ当時の編集長のシャブという人は、「表現の自由」というテーゼを頑として譲らず、イスラム蔑視の風刺画を載せ続けたという。

一方、襲撃を行なった青年たちも、2005年のパリ近郊暴動の時と同じように、植民地主義レイシズムを露呈させていくフランスの政治・社会のなかで苦しんだ挙句に、イスラムの「始源」への回帰(むしろ、伝統の否定)を主張する硬直的な言説に引きつけられていった移民社会の若者たちであった。

ひとつには、この両者の、非常にマッチョで単純化された思想同士の、「意地の張り合い」の帰結として、この凄惨な事件を批判的に見出すという視点がある。これは、デリダや鵜飼さんの、比較的理解しやすいスタンスだといえる。

 

 

だが同時に、この出口のない状況の中で、自死的ですらある行為(攻撃)の遂行へとどうしようもなく赴いていく人々の内面(主体性)を、歴史のつながりのなかで、どのように想像し、そこに関わっていくかということに対する、鵜飼さんの苦悩も感じる。

僕が最も考えさせられたのは、映画『山谷 やられたらやりかえせ』の監督で、撮影中にヤクザに殺された山岡強一氏の殺害後30年の集まり(2016年)での講演「生きてやつらにやりかえせ」の一節だ。そのなかで、鵜飼さんは、これは「シャルリ・エブド」の事件と、「やられたらやりかえせ」という言葉(思想)との両方を想起しながらだと思うが、ニーチェが「復讐」を重視し、人間は「復讐」を通してのみ「平等」という観念(認識)に到達しえたのだという洞察を行ったことを強調して、次のように書いている。

 

『今の時代に、もう一度「復讐」の観念を往年のままに復権させようとしても意味がないことは重々承知しています。そうではなくて、「復讐」の観念に内在している大切なものを、暴力一般を否定する時代の傾向に抗いつつ救い出すことは、私は必要だと思いますし、できることだと考えているのです。

 「復讐」の観念が平等の原則と不可分のものならば、それはけっしてなくなるはずはないし、抑圧しても歪んだかたちで繰り返し回帰してくるでしょう。歪み方が過剰になると、それはもはや「復讐」としてみなされなくなります。「復讐」を頭から否定していると、自分たちのやっていることがいよいよ分からなくなってくる。そういう回路に入ってしまうことのほうが、はるかに危険なのです。(p268)』

 

 僕はこれを読んで、「復讐」とは身体性のことだろうと、とりあえず理解した。情動という言葉を、あてはめてもほぼ同じだろう。

それは、目を凝らして見ようとしなければ消えてしまうような、(共に、すなわち平等に)生きようとする願いの、はかないが切実な証なのかもしれない。