『哲学のナショナリズム』

 

 

夭折したドイツの詩人トラークルの詩を論じたハイデガーの文章を執拗に分析したデリダの講義録。

トラークルの詩では、魂は地上においては「余所者」であると言われるのだが、その一節を強調するハイデガーの意図は次の点に眼目があるとデリダは言う。

(以下、引用文ではすべて、日本語表記部分だけを書き写したことを特に断っておく。)

 

 

『魂が地上においては余所者だとしても、それは魂が地上と無縁だという意味ではない。それどころか、魂はまさしく地上に向かう途上にあり、地上へ向かう移民である。(中略)必要なのは大地に帰ることであり、この大地は、住まいを約束することによってのみそれ自身であるような場なのである。(p76)』

 

 

地上において「余所者」である「魂」の旅路は、決してあてどない流浪ではなく、「約束」の「大地」(住まい)への回帰であることをハイデガーは強調していると、デリダは指摘する。デリダは、こうした「回帰」こそがナショナリズムの本質であるとも言っているのだが、そのようなものとしてハイデガーのドイツ・ナショナリズムナチスへの接近)を批判したデリダのなかに、シオニズムに対する(語られざる)意識がなかったと考えることは難しいだろう。

とりわけ、次のように言われる時。

 

 

『回帰とは、住まいや祖国の偶有的な、付け足しの述語などではなく、住まいの約束としての祖国や故郷(くに)を根源的に構成し創設する、本質的な運動である。それ、故郷(くに)は回帰の約束から始まる。祖国としての故郷は、ひとがかつて起源において住んだことがある場所、そして、そこを離れた後で、いつの日か、そこへ帰ろうと望む場所ではない。故郷は、回帰の約束にもとづいてのみ、それとして出現するのである。―たとえ実際にひとがそこを決して離れたことがなかったとしても、また実際にそこに再び戻ることが決してないとしても。(p233~234)』

 

 

「たとえ実際にひとがそこを決して離れたことがなかったとしても」という一節を読むとき、日本のナショナリズムこそがナショナリズムの中でも最悪のものではないかと考えざるをえない。

「最悪」というのは、デリダはここでナショナリズムを「死」につながるものとして捉え、そういう要素をハイデガーの思想の中に見い出して、それに敵対しようとしているからである(したがって、そうしたものでないようなナショナリズムは、ここではデリダの批判の対象になっていないと言える)。

デリダの主敵は、ナショナリズムというより、それが時としてはらみうる「死の勢力」の方なのだ(同時に、デリダが憎んでいるのは「(生物学的な)死」そのものというより、「死の思想(イデオロギー)」と呼ぶべきものの方だということも強調しておきたい)。それについて、例えばこう言われている。

 

 

『(前略)それらははるかに確実に勝利を収める死の勢力である。結集、同じもの、唯一のもの、道なき場しかないとしたら、それは端的に死だろう。(中略)したがって、場と非-場、結集と分割可能性(差延)とのあいだの関係は別様でなくてはならず、ハイデガーを導くように見える暗黙の論理を作り替えることを課すような、一種の交渉や妥協がたえず進行中であるのでなくてはならない。また分割可能性があると述べることは、分割可能性あるいは分裂しかないと言うことでもない(それもまた死だろう)。死は二つの側から付け狙っている。一方では、固有な場の完全無欠さ、戦争なき性の純粋無垢さの幻想の側から。また反対側では、根本的な非固有性ないし脱固有化の側から、さらには性の軋轢としてのゲシュレヒトの戦争の側から。(p137)』

 

 

「一種の交渉や妥協」の絶えざる進行こそが、デリダが「死の勢力」に敵対する重要な武器だったということになるだろう。

それはまた、次のようにも述べられる。

 

 

『私にとって、獣と呼ばれるものと人間と呼ばれるものとのあいだのあらゆる境界や区別を消去することが重要なのではない。そうではなく重要なのは、なんらかの国境(フロンティア)の一方と他方とを対立させる、そうした境界線の統一性に異議を唱えることである。(p222)』

 

 

ここにも、デリダらしい政治的な立場表明を見ることが出来るように思う。

そして、ここでデリダが最も鋭く敵対している「死の勢力」(悪しきものとしてナショナリズム、回帰の思想)は、具体的にどういう思想の姿をとるかといえば、それは今日の言葉でいうなら「反出生主義」に極めて近いものだと思う。本書中に引用されている(トラークルを論じた)ハイデガーの次の文章には、それがはっきりと示されている。

 

『みずからの炎のなかで、生まれぬ者の平和を見守る喪である。生まれぬ者たち、子として産み出されぬ者たちは、孫と名づけられるが、それは彼らが息子でありえないから、言い換えれば、(失墜した種族ないし性)の直接の、無媒介な新芽〔後裔〕、子孫でありえないからである。彼らとこの種族、この〔失墜した〕ゲシュレヒトとのあいだには、もう一つ別の世代がある。この世代が別の世代であるのは、それが別の出自、すなわち産み出されぬ者の起源である早朝に出自をもつ以上、別の次元に属しているからである。(p119)』

 

 

したがって、この本においてデリダは、反出生主義とシオニズムという二つのものを重ねるようにして、密かに敵対していると僕には思える。

おそらくこの二つは、ジャン・ジュネが生涯にわたって対峙し続けたものでもある(ジュネの作品と同じく、この本でも性的差異とその政治性は主要なテーマの一つである)。