秘密について(『死を与える』から)

まだ読んでる途中だが、『死を与える』(ちくま学芸文庫)所収の二つの文章、「死を与える」と「秘密の文学」から、デリダが「秘密」について書いてることをまとめてみる。

死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)


「死を与える」のなかの、205ページ前後のところに、「秘密の終焉」と、「内面性としての秘密の起源」ということが出てくる。これは、キリスト教の出現によって、「秘密」の概念が大きく変容したということを言ってるらしい。
いわばキリスト教が発明した「内面性としての秘密」というのは、代表的なものは、「大審問官」が抱いているようなものだろうが、要するに私が所有することができるもののことだと思う。ふつう、「秘密」というのは、そういう意味で使われる。ここでは、「内面」と同時に、「秘密」がそういうものとして発明された、ということが書いてある。
だが、本当は誰でも知っているように、「秘密」は、それだけのものではない。
この、それ以前の、それ以前から存在している「秘密」、アブラハム的な「秘密」こそが、絶対的な責任の条件であると、デリダは考えるわけである。
そちらの方の「秘密」も、もちろん誰でも知っているものである。しかし、キリスト教が「内面」を発明したときに、この意味の「秘密」は見えにくくなった。デリダは、そう言ってるのではないかと思う。


このアブラハム的な意味での「秘密」については、たとえばこういうふうに書いてある。

『何もけっして見ることのないような私にとっての、したがって、秘密が非対称性において委ねられる唯一の相手としての他者に委ねられた秘密。(p187)』

『他者に宛てられた秘密とは、他者にだけ委ねられるもの、他者だけが見ることのできるもののことだ。(p188)』

『すなわち、秘密についての知などはなく、秘密は誰にとっての〔=誰に宛てられた〕ものでもないものとしてあるということだ。秘密はなんらかの「我が家」に所属することも、そこに付与されることもない。(p189)』


これは少し分かりにくいが、別のところでは、こういうふうにも書いている。

『彼も私たちもこの秘密について何も知らない。秘密を分ち合うこと、それは秘密を知ったり、暴き出したりすることではなく、何かよく分からないものを分ち合うことである。知っていることではないような何か、これと限定できないような何かを分ち合うのだ。(p165)』


まだ分かりにくい。しかし、少し見えかけている。
デリダが語る、この意味での「秘密」とは、「沈黙」と言い換えた方が分かりやすいかもしれない。
それを、言葉にして、伝達したり認識したり所有したりが可能なものに変えてしまったら、失われてしまうようなもの、つまりデリダが「独異性」という言葉で呼んだものに関わるような、その人の生の要素、それを守るということが、この意味での「秘密」(「沈黙」)の意味である。
だからこそ、この「秘密」は、絶対的責任ということの、他者との(独異性における)関わりの、条件とされるのである。


そのことは、「秘密の文学」では、もっと明瞭に語られるみたいだ。
次の箇所では、デリダは、上に書いた二種類の秘密を、アブラハムが負うことになった「二重の秘密」という形で語る。
第一の秘密は、神が彼(アブラハム)に命じた内容、つまりイサクを犠牲に供せよ、ということを口外しないということであり、これは彼自身がその内容を「知っている」、また「所有している」秘密なわけだから、上述のキリスト教的な、あるいは近代的(古代的でない、という意味で)な「内面性の秘密」に対応するのではないかと思う。
それに対して、

『第二の秘密、しかし原−秘密は、犠牲の要求の理由あるいは意味である。この点に関しては、アブラハムは、ただ単にこの秘密が彼にとって秘密のままにとどまっているという理由で、それを守らなければならない。(p291)』


デリダは、キルケゴールと共に、この「秘密」(「沈黙」)を、試練と呼んでいる。
そのことを言葉にしないこと、言葉となった形で知ったり所有したりしようとしないということ、言葉以前の領域にとどまり続けるということ、それが「独異性」を引き受けるということであり、責任の、また決断の条件となる。


デリダが最も重視する「秘密」とは、こういうものである。
それはたとえば、カフカが描いたような「秘密」の相だ。
この意味での「秘密」、「沈黙」は、もちろん注意深い人には、日常のそこここに見出せる(聞き取れる)ものだろう。
だがそれは、現在の社会の中では、まるで「埋まっている」ようにも見えるという意味で、「古代的」な印象さえあるのである。