『ニック・ランドと新反動主義』

いろいろ面白かった。

 

 

表題の新反動主義だが、前半でその代表的な論者として紹介されるのは、いずれもシリコンバレーの企業を経営する二人の人物。まあ、ネット論客ですね。それと、哲学畑出身のニック・ランドという思想家。この人は、英国出身で、英国に居た頃は左翼のマーク・フィッシャー(故人)などと一緒に、音楽の分野でも目立った仕事をしていたらしい。

新反動主義についてだが、政治的な主張を一言で言うと、「自由にとって、民主主義は邪魔である」ということになるようだ。ニック・ランドは、望ましい政治のあり方について「voiceではなく、exit」ということを言ってるそう。voiceというのはデモとか投票とか、有権者が政治参加して社会を運営していく、要するに民主主義国家のスタイル。それに対してexitとは、専制的なリーダーがトップダウンで政治を行い、有権者(?)は気に入らなければ、そこを出て行って(exit)他の国に参加すればよい、というスタイル。これは、CEOと株主の関係のようなものだと説明されてるけど、全くそうだと思う。実際、今の指導者や政治家は大体こういう感覚の人が多いのだろう。それを批判して「民主主義を」と言っても、うざったいというのが彼らの本音であろう。

 

さて著者は、新反動主義というものを、現存の資本主義体制を是認・強化することによって「解放」を実現しようという、加速主義という更に大きな枠組み(戦前の生産力理論みたいだが、近年の代表的思想家として挙げられてるのは、当然ながらドゥルーズ=ガタリである)の一部と位置付けている。保守・反動主義者のニック・ランドと左翼のマーク・フィッシャーが協働できたのも、この文脈があったから。

なぜ、加速主義のようなものが出てきたのかといえば、神は死に、人間主義も凋落し、革命の夢も潰えたからだ、とされる。そこで、ニーチェが召喚される。究極の自己、究極の自由、超人の思想というわけだ。

ニーチェにしても、ドゥルーズ=ガタリにしても、かなり一面的な理解だとは思うが、時代の雰囲気としては当ってるところもあるのだろう。

 

だがそれは、本当の解放(自由)なのか?むしろ、自己意識という牢獄に囚われているのは、加速主義者や新反動主義者ではないのか。

ランドのリベラル(カント主義)批判は、西洋の「近代=啓蒙」というのは、外部(他者)を自己の内部に取り込んで「同化」する装置であり、つまり植民地主義と同じものだということ。それを解体する方策として、加速主義を主張し、テクノロジーによる人間的なものの解体(トランスヒューマニズム)を志向し、政治的には一切の抵抗や批判を無効と見なして反動主義の態度をとる。

こうしたランドのリベラル批判は、(一部の)アナキズム的左派の主張とも通じるところがあり、たしかに一理あるようにも思えるが、ランドが本当に危惧しているのは、特権的で優越的である(白人男性の)「自己」の安定が、もはや「近代=啓蒙」という装置によっては十分に保たれないということだろう。その優越性を手放すのが嫌なので、こうした論者は「専制」(反動主義)を待望したり、暴力による解体を志向したりするのだ。

このような過激性とシニスムの底にあるのは、特権的な自己への執着と、それが脅かされることへの恐怖心であると思う。