『国家をもたぬように社会は努めてきた』

http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27323.html

 

この本は、クラストルへのインタビュー(70年代だったか?)が主内容となっているが、訳者でもある酒井隆史による法外に長い「解題」が付されており、共著といってもよい内容である。酒井の文章は、この夭折した天才的なアナキスト人類学者が切り拓いた地平と、そこからのさまざまな批判を含めた展開を詳細に追っていて、やはりこちらの方により興味を引かれる。

 

批判としては、クラストルの議論にはジェンダー的な観点、つまりフェミニズム的な視点がまったく欠落していたことが広く指摘されているらしいのだが、そのなかでも、古代ギリシャ史家のニコル・ロローという人の批判が代表的なものであるらしい。

それはどういうものかというと、クラストルは未開の社会には「国家」という「単一なるもの」が形成されることを拒む様々な仕組みが存在しているということを書いており、それによって平等主義的な社会(共同体)を実現しているという。だが、その平等主義的(共産主義的と言ってもいい気がするが)な社会というのは、実は葛藤や混乱の原因である「女性」を排除することによって成り立っているのではないかと、ロローは指摘したのだ。そうだとすると、この平等主義的な社会(「国家に抗する社会」)というのは、つまるところ、国家と同様の「単一なるもの」の別様態に他ならないのではないかという、まったくもっともだと思える指摘である。

グレーバーのような後続のアナキスト人類学者たちは、こうした批判を受け止めてきているだろうと思う(さて、私自身はどうであろうか)。

 

 

興味を引かれるもう一点は、宗教あるいは、宇宙的な秩序(コスモロジー)ということに関わる。これはクラストルと深い影響関係にあったサーリンズやグレーバー(いずれも最近他界した)たちによって展開された観点である。

クラストルが提起したのは、「国家」というものが、客観的な現実の展開(進行)とは離れた「理念」のようなものとして人々を襲う(捉える)のではないか、という考え方である。マルクス主義社会学デュルケーム)のように客観的な現実(社会や経済)から「国家」が生じてくる(もしくは反映する)のだとは考えずに、それは「理念」として、いわば主観的、あるいは信仰のような次元に根差して出来(回帰)する。

だとすると、「国家」(あるいは、国家的な支配の論理)は、信仰や想像の領域にこそ、その根を持っているということになる。これは、恐るべき指摘である。

グレーバーは、アフリカなどを観察して、平等主義(共産主義?)的な社会ほど、「妄想の次元」においては激しい抗争や葛藤を抱えていることを発見したという。まるで、この次元での(つまりは想像的な、ないしは水木しげる的な)抗争を調停するかのようにして、「国家に抗する」さまざまな(平等主義的な)仕組みが、これらの社会において機能している、というのである。つまり、ここでは、妄想の次元における争いが、「国家に抗する」活発なメカニズムの原動力のようになっている。

またサーリンズは、『王権』の著者であるホカートを参照しながら、「神が王の似姿なのではなく、王が神の似姿なのだ」と明言する。想像的な領域においては、「メタパーソン」と呼ばれる神霊的な存在が人間を支配しており、その宇宙的な秩序は、現実の国家が不在な場所においても確かに存在している。この秩序こそが根源的であって、現実の「王」は、この「メタパーソン」の似姿のようなものに過ぎない、というのである。

こうした、社会の深い領域に存在している「秩序」の効力という話は、ベルグソンが『宗教と道徳の二源泉』で書いていたことを、やはり思い出させる。「国家」に実効性を与える内的な秩序が、人類史的な根深さを持っているとするなら、そこから脱することは不可能にも思える。もっとはっきり言えば、人びとの「妄想」や「思い込み」や「情念」こそが政治制度を決定するのだとすれば、いかなる啓蒙的・民主主義的な政治思想(特に立憲主義)も、意味を為さないと考えそうになるであろう。実際、現在の世界(もちろん日本を含む)の政治状況は、そのような「妄想の次元の支配」こそが人類の政治的現実の常態であって、理性的な(話し合いによる)政治制度の安定などというものは、一時の例外的事態にしかすぎないことを証明しているようにも見える。

だが、サーリンズも、グレーバーと同様に、このことを「国家の根深さ」という意味で持ちだしているわけではない。そうではなく、未開の社会においては、こうした「メタパーソン」の(不可避的な)威力が現実の個人や集団に転移してしまうことのないように、綿密な仕組みが機能していることをこそ強調しているようなのだ。

つまり、「国家」は超越的であり不可避であるが故にこそ、それは綿密かつ繊細に、また永続的に回避されなければならない。その抵抗の射程が、示されているのである。

もはや、混沌に満ちた「常態」が露呈してしまった今であるからこそ、我々は悪しき「単一なるもの」の力の実態に立ち向かい、それを克服せねばならない。この本は、そうしたメッセージを私たちに告げているのではないだろうか?

そしてそれは、かつてベルグソンが『宗教と道徳の二源泉』で呪術(ファシズム)に対比して、「宗教」に期待した事柄と、やはり似ているように思える。