白川真澄さんの論考をめぐって

『今日、考えたこと』さんに、白川真澄さんの「2015年安保闘争について――その意味と課題(覚書)」という文章が紹介されてました。
http://tu-ta.at.webry.info/201509/article_6.html
まずは、読んでいただきたいのですが、そのうえで感想を以下に簡単に書いておきます。


当然ながら、見事な分析であると思いました。
特に、「2 たたかいのエネルギーはどこから生まれたのか」の終わりの方の、小熊英二氏の見解に対する批判は、私には正確に理解できてるかどうか分かりませんが、今回の若者たちの行動の「可能性」の核心を捉えた、鋭いものだという印象を受けました。

しかし、大事なことは、「小さな幸せ」という「平和な日常」を脅かす不安は、若者を「日常」に閉じこもらせず、「日常」の外へと動かしたということである。「平和な日常」は、政治への無力感や無関心でもある。リスクを恐れながらも「黙ってはいられない」、「何かをしたい」という衝動は、新しく湧き起った力であり、「非日常」への跳躍の動力である。初めてデモに参加する――それはたった1日だけでも、人にとっては「非日常」の世界に踏み出す貴重な行為であり、経験なのである。小熊は、「日常」と「非日常」の固定した二分法でしか若者の行動を捉えられないのである。

白川さんの分析は、市民運動の立場から、今回の「2015年安保闘争」を評価しようとしたものであろうと思います。
そこでは、「3 たたかいの主体の特徴」に示されているように、特に70年安保以降の、無党派的・ミクロ的な運動の蓄積の延長線上に、今回の「闘争」が置かれ、SEALDsの運動も、あくまでそのなかの一つという位置づけになっています。
これは、最近よく見られる、「過去の運動」として一緒くたにして否定するような歴史破壊的・新自由主義的な「運動論」とはまったく違うもので、私には、説得力のあるものでした。
また、「4 運動から制度圏への展開のための課題」に書かれている、野党は選挙協力の目標を「国民連合政府」というところにではなく、

政権構想は棚上げして、政策的な共同目標で選挙協力を推進するほうが、政治的には有効であろう。

との指摘も、私にはうなずけるものです。
それは、現実的であるというだけではなく、とりわけ日本共産党が、辺野古基地建設反対や新自由主義反対、そしてもちろん改憲反対といった、最も大切な主張を手放さないためにも(それは、社会全体にとって大きな意味を持つことだと思います)、適切な意見であると思います。
かつての社会党のように、解体してもらっては、こちらが困るのです。


以上のように、白川さんの文章には、多くのことを学べるのですが、ただ私は、やはり全体としてこの見解が、対安倍政権という意味でも、また運動内部の問題についても、あまりにも楽観的ではないかという危惧を抱かざるをえません。
今回の「2015年安保闘争」は、元々が政権の暴走によって追い込まれた結果生じたものという側面が強く、法案そのものも通ってしまい、対抗運動を含めた社会全体の統制的な傾向は、日増しに強まっているというのが、圧倒的な現実ではないでしょうか?
新しい社会運動のあり方を肯定するにせよ、この絶望的な現実を否認しないところからしか、真に力ある抵抗は生まれてこないのではないかと考えます。