『1968年』

1968年 (ちくま新書)

1968年 (ちくま新書)

10年前に新書として出た本。
すが秀実の本は、かつては愛読していたのだが、ずいぶん長いこと(今世紀になってから?)読んでいなかったこともあり、論についていくのに苦労した。読み切れていないところがあるかもしれないが、自分なりに理解したことを書いておきたい。
色々なことが知れて面白いのだが、曖昧な印象も残る。


まず最初の章で、著者の歴史観の大枠が示される。整理しにくいのだが、おおむね次のようなことだと思う。
世界的に見て、「68年の革命」が画期的だといえるのは、それがポスト市民社会という新たな資本主義の形態に対応するものだったからである。主体主義、市民主義といった、それまでの社会運動のスタイルが、そこで批判され、捨て去られることになる。
西側各国では、主体的な運動(日本では旧左翼や60年ブント、それに市民主義的運動など)が衰退し、ポスト市民主義的運動(新しい言葉でいえば、マルチチュード)の時代に移行する。
また、そのことは、マルクス主義の内部においては、反スターリン主義の流れに一致するものでもあったと、著者は言う。反スターリン主義は、社会主義体制自体にも内在し、プラハの春などを経て、やがてペレストロイカ社会主義圏の崩壊という事態を招来する。
これが、「68年の革命」の意味だったというのだ。
著者は、このような動向は、「受動的革命」(グラムシ)として、その後の社会で実現するに至った、という歴史解釈を示す。スターリン主義が否定された結果として「壁」が崩壊し、また欧米や日本など各国の政府は、「68年」が提示したさまざまな政治的主張(人種や男女間の平等など)を受け入れざるを得なくなった(ラディカル・デモクラシー)。
だが、それは同時に、「資本主義に依拠した革命」でもあった。高度消費社会化、大衆化が進むと同時に、68年当時の様々なマイノリティーの主張は、「リベラリズム」という形で、いわば制度化されて体制に取り込まれた形で実現される。そのことで、社会のなかの摩擦や対抗性のようなものは消し去られ、すべてが「合意」のもとにあるかのように見なされ扱われることになった。
そして、リベラリズムは、いまや資本の論理の一環として、ネオリベラリズムという形をもとって、一切の対抗性を見失った人々を支配するのである。


68年の革命は、本来は市民社会リベラリズムに対する異議(革命)として出現したものだった。
著者は、このリベラリズムへの反発という傾向を、歴史のなかで反復されてきたものと捉えている。
繰り返される反発にも関わらず、「革命」を抑圧する「リベラル」は必ず回帰してしまう。そこに、著者の基本的な問題意識があるようだ。
著者によれば、いわゆる60年安保闘争は、「民主か独裁か」というスローガンに象徴されるように、独裁的な手法をとった岸信介を敵とする国民主義的な運動としてあったのだが、そのナショナルな高揚も、その当時は旧来の「リベラル」なものへの反発としてあったのであり、それを象徴するのが、「太陽の季節」を書いた石原慎太郎の存在(太陽族)だとされる。
そうした「リベラル嫌悪」は、戦前にさかのぼれば、芥川に代表される「大正的なもの」を切断しようとした宮本顕治の「敗北の文学」や、カッシーラーを鋭く批判したダヴォス討論のハイデッガーに例を見出すことができるという(最も古い例は、プラトン『国家』(『共和国』)のトラシュマコスだろうか?)。
「68年の革命」もまた、全学連やべ平連に代表される、戦後日本の市民社会(リベラル)への反発の意志を、その本質としていた。
だが、結論をいえば、それはやはり(いつしか)体制と資本によって回収され、リベラルとネオリベラルによる支配への屈服を帰結してしまった、という現状が問題にされるのである。


(このへんは、著者の力点がリベラル批判に置かれているのか、ナショナリズム批判に置かれているのか、僕には正直、よく分からなかった。
何といっても、この本が書かれた頃には、「リベラル」も「デモクラシー」も直截に危機に瀕しているような今の政治情勢は、さすがに予見できなかっただろう。先日書いた、羽仁・花田対談でいえば、「反ファシズム」の必要性がこれほどせり上がってくるとは予測できなかった、ということではないか?)


日本の場合、「68年の革命」が乗り越えようとした旧来の(リベラルな)運動には、ナショナリズム・ナルシズムという枠が強固にはまっていた。
それは、石原の「太陽の季節」と同時代的なブント(全学連)の運動の体質にも、また丸山真男に代表される「戦後民主主義」の一国平和主義的なあり方にも、それにもちろん政党の姿勢にも、共通して見られるものだ。
この60年安保型の運動からの切断こそ、日本の「68年の革命」の意義であることを著者は強調するわけだが、しかし、当初はこの「革命」の担い手だった学生たち自身も、その枠の中に安住しながら運動をやっていたのだ。
それは、戦後日本の資本主義を土台として、それに乗っかりながらの「大学解体」などの運動、もしくは「国際連帯」の行動だったりしたわけで、前世代の(ナショナルだが)訓練・規律化された主体による運動と比べても、大衆化社会の若者たちによる「遊戯」と言われて仕方がない面があった(これは、ジャン・ジュネ五月革命に対する冷ややかな見方と一致するだろう。また、花田清輝も「学生の運動」への不信を隠さなかった。)。
そこに衝撃を与えたのが、著者が常々語ってきた「華青闘告発」である、ということになる。


70年7月7日の「華青闘告発」によって、日本の「68年の革命」の主役たちは、初めて、自分たち自身もそこに囚われているナショナリズム・ナルシズムの枠組みに気づかされ、動揺することになる。
それは、そこから70年代のマイノリティー運動への接続の道が開かれ、大きく運動が深化するという積極的な意味をもったのだが、同時に、さまざまな混迷をももたらした。その混迷は、結局は人々がナショナルで主体主義的な態度を放棄することを拒み、己の主体の空無さを知った衝撃を(「決戦主義」など)さまざまな形で否認しようとしたことによってもたらされた。
これが、著者の見解だろうと思う。
否認については、こう書かれている。

「否認」とは、それがないことを知りながら、にもかかわらずその存在に執着するというフェティシズム的な態度のことである。(p212)

つまり、著者は、70年以後に起きた新左翼内ゲバ等は、「華青闘告発」(もちろん、実際はそれだけではなく、諸マイノリティ運動ということだろうが)を突きつけられて、自分たちのナショナリズムを自覚すると同時に、大衆化社会の中ですでに空無なものとなっていた自分たちの「主体」の内実を認めることを拒んだ人々が、その空無を内心では知っているからこそ、「強い」「戦う」主体であることに固執した結果だと考えているのではないか。
この意味で、70年代以後の運動の暴力性は、それ以前の(主体が本当に信じられていた時代の)暴力とは、質を異にしたものとなる。
それは、「それ(主体、革命)がないことを知りながら」、だからこそ、行使される暴力であり、その意味で「シニカルな暴力」である。
今の視点から見て、本書の意義の一つは、現代ではこの「シニシズム」が、リベラル化した社会と革命の暴力との共通項をなしていることを指摘している点にあるのではないかと思う。

なぜなら、内ゲバや爆弾において現出した暴力とは、もはや世界は何も変わりはしないというシニシズムを打ち破るものであるとされた革命の暴力それ自体が、再びシニシズムに囚われるということを明かしてしまったからである。(p289)

話が前後するのだが、著者は、ベ平連についても、一般に考えられているような(小熊英二道場親信が論じるような)「ふつうの市民」の運動などではなく、60年代末のポスト市民社会大衆社会)出現に対応する「分子的な」「非=市民の運動」であったことを強調する。
そう捉えることで、べ平連は戦後民主主義というリベラルに対峙する「68年の革命」の中に位置づけられるのだ。
この点での著者のスタンスは、次の箇所によく示されている。

今日、べ平連に象徴される市民的反戦平和主義を再評価することは、何を意味するだろうか。それはむしろ、冷戦体制の崩壊とグローバル資本主義によって自明のこととされてしまった、もはや「政治」が機能しなくなったとシニカルに認識されるごとき、ポストポリティカルな状況における「革命」の不可能性と、資本主義の永遠性を追認するだけではないか。(p081)

先の点に立ち戻れば、シニシズムは「市民運動」の復権によるリベラル体制の再強化という形をとる一方で、苛烈だが消耗的な暴力の行使という姿をとることもある。
著者が真に憎んでいるのは、リベラル云々よりも、現在を覆うこの政治的なシニシズムの罠ではないかと思えるのだ。


ところで、僕が本書のなかで特に興味をひかれたのは、70年以後の「偽史」ブームと新左翼運動とのつながりを論じた第4章である。
偽史」ブームは、ポスト工業化、ポスト市民社会とも関連する「言語論的転回」によってもたらされたものと考えられるが、そこには正負の両面があると、著者は見ているようである。
負の面とは、現実から遊離した空想によって、実際には現実社会の在り方を是認し、時の政治権力や支配体制を支えてしまうような、中途半端な「偽史」の機能である。いわゆる「トンデモ」と呼ばれているものの大半がこれにあたるだろうが、著者はその最たるものを、吉本隆明のカルト的著作『共同幻想論』に見出していると思う。
だが、その一方で、「偽史」の氾濫には、「言語論的転回」以後の社会の情勢に応じた、もっとポジティブな意味合いがある。それは、何が真実かということが、客観性はもとより、もはや「正史」の権威によってでもなく、「言説による闘争」によって決められてしまう現状を直視して、そこに身を投げ入れるということである。
実際、著者は70年代以後の状況の一面を、様々なマイノリティーによる「正史」の書き換えを求める闘争の沸騰と捉えている。
その過程を経て今日では、政治権力や資本は、圧倒的な物量によって言説空間を操作し、「何が真実か」を都合よく決めてしまおうとする。その非対称性を知った上でも、なおシニシズムに陥らず、「言説による闘争」を行おうとする意志が、今日の社会では「真実」や「客観性」を守り抜くために要請されるのだ。
そう考えてくると、実は、この本自体が、一つの「偽史」であり、「言説による闘争」の実践に他ならないのではないかと、思い当たったのである。