『ビヒモス』その6

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)


最後になる今回は、本書のまとめの部分について書こうと思うのだが、その前に、ナチスの法制度・法思想についてのノイマンの考えを紹介したい。
ここは、ナチス体制についてのノイマンの見方の根幹に関わる重要な箇所の一つだと思うが、現在の観点からは注意が必要であるようだ。


ノイマンが、ナチス時代の法制度について、根本的な問題としているのは、そこでは法律と道徳とが一致してしまっており、法律の形式的な独立性が保持されていない、という点である。

実際、法律と道徳律との一致は、完全に同質的な社会においてのみ、たとえば、普遍的に承認されている価値体系によって支配されている宗教的集団において、維持されうる。(中略)しかしながら、道徳的信念がたえず衝突しあっている敵対的社会においては、二つの規範体系の一致といわれているものは、人の良心を威嚇するための一方法であるにすぎない。(p378)

こうしたノイマンの法律観は、カント主義的・共和主義的・政教分離的なものだと言えよう。
このような姿勢は、本書の全体に一貫して見られるものである。たとえば、ドイツの血統的な国民概念に対する、フランスやアメリカの共和主義的国民概念への高い評価。また合理性を体現するものとしての官僚機構への肯定的評価。さらには、「競争的資本主義」へのアンチテーゼとしてのアダム・スミス自由主義思想への傾倒など。そこには、合理性に対する強い信奉があるといえる。
実際には、ここで最も重大なのは、道徳と法律との一致による「威嚇」が、国家権力による民衆への威嚇、という形をとる場合だろうと思う。
ノイマンは、道徳の法律に対する独立の重要さを、次のように説明する。

法律の一般性と抽象性は、裁判官の独立性と共に、最小限の人格的、政治的自由を保証する。(p378)

法律が、その独立性を失って道徳に飲み込まれれば、最終的には総統の命令や一般的原理が、法律に代位するような社会になってしまうであろうと、ノイマンは述べる。
そこからノイマンは、「遡及法の否定」という大原則の重要さを強調し、ブラジルの政治思想家、ベンジャミン・コンスタントの次のような章句を引用している。

遡及効は、およそ法律のおかしうる脅迫のうちで最悪のものである。それは社会契約の破砕と、社会が個人に服従を要求する場合の根拠となる諸条件の破壊を意味する。(p379)

このような大原則が崩され、法律が道徳と一致してしまったところに、ナチスの法制度の悪しき特色があると、ノイマンは見ているのである。
ノイマンによれば、ナチスの法制度は、法律の一般性が完全に失効し、その場限りの特殊的判断(決断主義)のみによって法が運用される、無法的な体系である。
ドイツの法制度・法思想は元来の実証主義的・形式主義的なあり方から、独占資本主義下で法律と道徳とが一致する制度主義(共同体主義)的なあり方へと変容し、やがて不可避的に、ナチス特有の恣意的で場当たり的な決断主義のあり方へと堕落していったというのが、彼の見取り図である。

もし一般的法律が権利の基本的形態であるならば、また、もし法律は単に意志であるだけではなく、理性でもあるならば、われわれは、ファシスト国家におよそ法律が存在することを否定しなければならない。(中略)一般的法律契約はある一定の段階で消失し、個々的な条例にとって代られる。
 法律の一般性の絶対的否定は国民社会主義の法理論の核心である。(p383〜384)

このような社会では、法律は、国家が大衆に命令し、また(その恣意性と暴力性によって)大衆を威嚇して操縦するための手段以外のものではない。
ノイマンは、これを『法律の形をかりたテロによる大衆操縦』だと、明言している。


法律が、人々の自由や権利を保証するという本来の役割を喪失して、国家のテロによる大衆支配の道具と化すという事態は、今の日本でも生じていることだと思うので、ここでのノイマンの指摘は極めて説得力を持つと感じる。
ただ、それが法律の道徳に対する形式的な独立という問題と、不可分であるのかどうかには、疑問もある。
思い出されるのは、家永三郎東京裁判について、やはりその遡及効的な性格を疑問視していたことである。東京裁判もニュールンベルク裁判も同様に、遡及効的な性格を持っている。また後者の場合には、「人道に対する罪」のような普遍的道徳の概念も適用された。
法律の道徳からの形式的独立を、自由や権利の最小限度の保証の条件と考える、ノイマンや家永の立場とは、これは相容れないところがあるのではないだろうか?
そして、特に1980年代頃からだと思うが、植民地支配や戦争犯罪、大量虐殺などに関して、普遍的道徳に基づく法律的決定が増加し、それに対して西洋(キリスト)中心主義ではないかというような批判がなされてきたという歴史もある。
それでも、なんらかの普遍的道徳性を法制度に介入させなければ、国家や、特定の世界的支配システムの犯す不正と暴力を抑制できないということも、ナチス(や日本帝国)による惨禍を経験し、今なおその復活に脅かされている我々にとっては、確かなことではないだろうか。




さて、ここから本書『ビヒモス』の結論部の要約に移る。
ノイマンは、ナチズムによる社会変革の本質を、諸個人のアトム化による、政治の魔術化という点に見ている。ナチスファシズム)は、あらゆる政治思想や理念を無効化し、それを魔術によって置き換えた。

国民社会主義は、ワイマール共和国の制度的民主主義を儀式的で魔術的な民主主義に変えてしまった。(中略)全体主義戦争の必要条件として、一つの発展が要求されたのである。(中略)完全な統制が、前にもまして必要になる。結局、大衆を操縦するためには、彼らを統制し、アトム化し、威嚇するためには、彼らを、イデオロギー的に捕えねばならないのである。(p398)

近代のファショ的指導者は、社会の物質的基礎に手をつけないやり方で、不安の排泄口をつくる。われわれの時代では、これは、公開の儀式のみならず日常生活においても思考を魔術的な式典にとりかえてしまうことによってのみ可能である。この目的を達成するために、近代社会の特色をあらわす個人の孤立化は、官僚諸機構の巨大な網の目と、日和見的で無限に順応性に富んだイデオロギーにたすけられて、その極限にまで強化される。(p399)

『社会の物質的基礎に手をつけないやり方で、不安の排泄口をつくる』というのは、目を見張るほどに鮮やかなファシストのやり口の暴露と言えよう。ファシストは、社会を破壊し民衆個々をアトム化させて不安を煽り、その不安を階級闘争や反権力闘争へと向かわせる代りに、魔術的政治へと動員することで解消し、統治しようとするのである。
いわゆる「パンよりもサーカスを」という奴であろう。そして現在では、ナチス時代と比べてもはるかに、「日常生活においても思考を魔術的な式典にとりかえてしまう」装置には事欠かない。
ノイマンにとっては、ナチスユダヤ人排撃の本質も、政治の魔術化の条件となる、社会破壊と個人のアトム化の推進のうちにあるものとされるのだ。

この反セム族主義のイデオロギーと実践において、ユダヤ人の根絶は究極の目標、すなわち自由な制度や信念や集団を破壊するためのたんなる手段にすぎない、ということが以上から結論される。これを反セム族主義に関する尖兵理論と呼ぶことができるであろう。(p435)

このような魔術的な政治体制は、民主主義ではないのはもちろんのこと、国家とも呼べないと、ノイマンは言う。それは、何か別のものである。

しかし、もしも国民社会主義構造が国家でないとしたら、いったいそれは何なのか。国家として今までに知られているような、強制的ではあるが合理的な装置を媒介せずに、直接、支配グループがその他の人口部分を支配する社会形態に、われわれは直面しているのだと、私は思い切って提言しようと思う。(p402)

今日から見れば、これはフーコーを思わせる視点、あるいは工学的な政治への視点と呼べるものだ。
国家という合理的な制度を媒介しない社会(大衆)支配の技法というものを、ノイマンはナチズムの核心に見ていたのである。


だが、こうしたナチズムによる政治支配は、ただ支配層がそれを望んだから成立したものだと言い切れるであろうか?
ノイマンは、ワイマール期のドイツでは、ウイルソン流の民主主義や自由主義は信用を失い、それらが結局は西洋列強と資本主義の支配を正当化するための隠れ蓑にすぎないという、シニカルな心情が社会に蔓延していたことを指摘する。
こうした心情がもっとも有力であったのは、ドイツの中産階級(それはワイマールのドイツでは、既に経済的にはプロレタリア化していたのだが)だった。ナチスは、この中産階級に働きかけて、その階級意識を根絶し、魔術的な政治の場へと引き込むことで、その支配を達成したのである。

(前略)底辺(大衆)と頂点(支配階級)との間に二者を仲介する広範な中間階級が存在する場合にのみ、自由主義的民主主義の社会政治体制は築かれうる。これはかなり普遍的な知識である。ところで、ドイツの大衆と支配者は階級意識をもっている。そこでナチスは、似而非平等主義的な措置を通じて階級意識を根絶しようと必死の努力をつづけてきた。(p490)

この「必至の努力」の中身が、つまり「国民社会主義」という偽物の理念である。ナチスは、自由主義的民主主義による抵抗の根を断ち切るために、不満と失望に覆われた中産階級の意識を籠絡して、彼らを魔術の信奉者(つまりナチス支持者)に変えてしまった、ということだ。
だが、最も重要なのは、この変容の本当の原因は、実は中産階級自身にあったということだ。
ノイマンは、大戦中、中産階級(小事業者)出身のドイツ兵が戦地から書き送った手紙を引用した後、期待を裏切って大資本を優遇するナチスの経済政策への不満を述べる彼らの言葉が、弱い立場の国々を強奪する帝国主義の論理を土台にしたものであることを批判している。

このことは決して驚くにあたらない。ドイツでは中産階級以上に腐敗した集団はないのである。彼らが自由主義にくみしたことはかつてなかった。ドイツの全歴史を通じて、「市民」は他の人々――ドイツ人労働者であろうと外国人労働者であろうと――の犠牲においてよき生活を獲得しようと試みつづけてきた。ドイツの岐路のすべてに際して(中略)、市民は対外征服と反革命自由主義を売渡したのである。(p492〜494)

すなわち、ドイツの中産階級(市民)が帝国主義を脱却できず、一度も真に自由主義的であったことなどなかったということが、ナチス台頭の真の原因である。
内なる帝国主義を脱することを拒んだ人々は、自ら望んで魔術的な政治の祭典へと殺到したのだ。
ここから学ぶべき教訓は、ファシズムは、社会総体の、また個々人の、内なる帝国主義や、内なる競争的資本主義の論理への敵対と脱却なくしては、対抗しえない社会的現象だろうということだ。
1941年に、ノイマンはこう書いている。

体制内の割目や裂目、いやドイツの軍事的敗北すらも、この政体の自動的な瓦解をもたらすことはないだろう。それは被抑圧大衆の意識的な政治活動によってのみ転覆することができる。(p407)

ドイツはこの困難な道を、むしろ戦後になって歩んだのだろう。


(了)