『明治大正史 世相篇』

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)


この本のなかで、柳田国男は、たとえばこんなことを書いている。


昔(近代以前)から、日本の家屋には二通りの種類があった。ひとつは、常時住んで暮らすためにきちんと作られた家だが、特徴的なのは、それと併存して持たれることになった、もう一種類の方である。
それは、仮屋とか、作業用の小屋のようなもので、季節とか必要な時期だけ作られ、その時期が過ぎるとさっさと解体されてしまう。もしくは、別の場所に移動することになる。これは、平民の暮らしだけではなく、天皇の宮殿や神社の建造物(式年遷宮)にも、共通して見られる形式だという。
要するに、必要に応じて臨時に建てるが、その時期が終われば壊してしまったり、よそに移動するようなものとして家屋住居を考えるということが、日本の土地では古くから普通であった。
こうした家屋(住居)に対する考え方は、防火に重きをおかず、家は焼けてなくなるのが当たり前だというような、やや投げやり、ないしは荒っぽい思想にも通じているようだが(p132)、面白いのは、柳田がこれを、労働とか、労働力の移動、つまりは都市の形成といった事柄につなげて考えていることである。
それは、今日風に言うなら、小屋、テント、バラック、ドヤの系譜、とでも呼べるだろう。

小屋は要するに働く人々を、一時集めておく宿舎のことであってコというのはたぶん小さいという意味でなく、単に若者たちともいうべき語であったろうと思う。農業漁業の大きな作業団にも、かつては鉱山山林と同じく小屋があって、それを常設に集合させたのが長屋であった。大小の都市の新たに興ったものには、ことにその長屋を作るべき必要が多かった。それを小泉八雲氏などは、眼を丸くして驚き見たのであった。(p104)

町にももとより大屋というものはあって、相応の地面を請けて永住しており、これには武家と違ってできるだけ表間口を狭く、なるべく多くの軒を一町に列ねさせようとしたのだが、新たに興る町の労働はそれだけではとうてい足りなかった。それで地内にたくさんの割長屋を設けて、それぞれ自分の監督する働き人をこれに入れておいたのであった。地主が追い追いに自由な職業になって、この長屋の者を引率しなくなり、人入れ寄り親の業は別人の手に属し、親方自身も小さいのは長屋におり、隣へ見ず知らずの者が集まって来るようになったが、なお表向きだけは店子の身分を、大屋が管轄することになっていたのは、明らかに以前の小屋生活の名残りであった。(p106)

このことを、別の側面から見ると、親方制度の存在が浮かび上がる。
かつて、農村から都市に人々が働きに行くとき、各村には親方と呼ばれる世話役が居て、その人に統率されて労働に出向くことで、農民たちは収入の安定を得ていた。それが、明治以後の時代になると、こうした労働力の移動のための自立的組織のようなものが解体されてしまい、そして、それに代わるような仕組みが作られない、という危機に陥ったのである。

親方制度はすなわち現在の自主的組合の、代わりを勤めたその組織であった。(中略)
寄り親が町に住むようになって、人入れ家業が起こり、村からそれを頼って行く者ばかりではなく、知らぬ者までもたやすくその恩恵に浴することができるようになった。すなわち家につながれていた多くの出稼ぎ労働者は、この親方制度によってしだいに独立して、適宜に配賦せられていたのであった。寄り親のない出稼ぎはたとえば朝鮮人の土方や作男、中国人やロシア人の行商者のごとく心細い不安なものである。親方制のない今日、それに代わる有力な何物かができないならば、異郷の人のみではなく、われわれはその不安を喞(かこ)たねばならぬのである。(p336〜337)

要するに、この本で柳田が書いている重要なことは、近代以前には、人々の必要に応じた自由な移動と生活を保障するための自立的な組織が、民衆の間に存在していたのだが、近代化の過程においては、それがうまく継承されなかった、ということである。
近代化は、人々から、そういう自立的で共同的な生存のための力、つまり自治の能力を奪う過程でもあった(それは、そうしなければ、権力者たちが思い浮かべたような「近代化」が不可能だったからではなかろうか?)。
この過程は、とくに農村においては、資本の論理による生産物の画一化(文化の画一化にも通じる)と大量生産・過当競争という形でも、あるいは国家による統制的な保護政策という形でも進行した。
下の文章からは、柳田がもっとも重視していた民衆の生のあり方がどういうものだったか、うかがえると思う。

全体に産物の種目が数多く、従うて選択が人々の自由であったころが農業は盛りであった。折々真似をして馬鹿げた損をする者はあっても、珍しいと言われているうちの品物なり生産方法なりには、苦心は大きい代わりに人をうらやませるだけの余得があった。発明工夫は農家には無益のもののごとく考え、ひたすら模倣をもって平凡なる安全率を保障しようということになって、たちまちにして作り過ぎの現象を生じた。(中略)
 最近ようやくのことで生産統制の必要を認めるようにはなったが、府県が互いに傷つけつつ販路の争奪をしていたのは、かなり久しい前からのことであった。その原因は総計の数字を重んじ過ぎたことが一つ、いま一つは補助や補償の不自然な手段に誘惑せられて、各自の危険をもって経験を積み、計画を進めようとせぬ者が多くなったことである。個人は生産が過剰であるか否かを、ぶつかって見なければ知りようがない。しかも国が職業を純化しようという傾向は、一段とこの不意の競争に遭うて、打撃を受けやすいような農家を作り上げていたのである。(p314〜315)

柳田は、自由や自立ということを強調するが、それらは、共同性によってはじめて保障されるものでもある。国家も資本も、それを保障することはない。(帝国官僚だった柳田は、もちろんそうは書かないが)むしろ、基本的には、敵対的でさえあるだろう。
たとえば、明治政府によって作りあげられた組合制度が、かつての農村が有していた組合の自立性とは真逆のものだということを、柳田は次のように指摘する。

以前の協同の実際の利益を記憶している者は、かえって新制のただ旧きものを何の詮議もなく捨て去るのに不服であったが、統括時代の単一方針は、むしろ目ぼしい地方の有力者に新事業を与えることに汲々としたため、特徴ある各種の組合の発展は阻止され、一方無数の新設組合への参加を強要される人々は、ますます従来の自治心を喪失して行ったのであった。(p383)

この本の最後の方で、柳田は次のように書いている。

日本で毎年の自殺者は一万数千、このごろ東京だけでも一日に五人ずつ死んで行く。(中略)しいて妻子のその意思もないものを同伴として、家をなくしてしまおうという考えの中には、説くにも忍びざる孤立感が働いていたのである。生活の興味はこの人たちにはもう切れていた。仮に引き留められてしばらく生きたとしても、その力を集めて世の中は改良しえなかった。やはり最初にはその不幸がこの世にあまねきものの一端であって、一つの新しい知識と方法とが、総括してこれを救いうるということを、覚らしめるのほかはなかったのである。(p379)

人を絶望へと追いやるものは、社会からの孤立である。社会とは、過去から未来へとつながる集団性のなかで自分の生を捉える姿勢のことだろう。だが、そうした展望は、おそらく、民衆自身によってしか作りだされえないのだ。
民衆は、国家やナショナリズムからも、また資本が提供するような「自由」や「コミュニティ」の概念からも脱却しなければ、ほんとうの共同性に到達することは出来ないだろう。
自立的な組織の重要性に着目した柳田国男の考えは、ファシズムの到来に際して、国家や資本による「中間組織」の解体に警鐘をならしたヴェーユ(『根をもつこと』)や、フロム(『自由からの逃走』)の思想に近いものだといえよう。その洞察力は、卓越している。
だが、そのような組織と社会とが、柳田のナショナリスト的側面には反して、あくまで開かれた性格のものだということを、われわれは忘れてはならない。
本書は、次のように結ばれている。

改革は期して待つべきである。一番大きな誤解は人間の痴愚軽慮、それに原因をもつ闘諍と窮苦とが、個々の偶然であって防止のできぬもののごとく、考えられていることではないかと思う。それは前代以来のまだ立証せられざる当て推量であった。われわれの考えてみた幾つかの世相は、人を不幸にする原因の社会にあることを教えた。すなわちわれわれは公民として病みかつ貧しいのであった。(p435〜436)