『神道の成立』

神道の成立 (1979年) (平凡社選書〈64〉)

神道の成立 (1979年) (平凡社選書〈64〉)

名著という評判を聞いて読んでみたのだが、なるほど非常に面白い本だった。
その独特の文体は読んでいてまだるっこしくはあるのだが、歴史的な文献や柳田国男の論文などの、綿密にして斬新な読解が含まれていて、多くのことを考えさせられる。


本書の重要な論点の一つは、呪術(シャーマニズム)的な段階から区別される「宗教としての」神道の成立を、かつて東アジアを席巻した仏教の拡大という現象に対する、一種の(日本という地域なりの)反作用として捉えた、国際的でダイナミックな視点である。
それは、中国において同様の反作用として構成された儒教道教(仏教の到来以前にはシャーマニズム的なものだったことは、それらも同じだろう)の枠組み、さらには仏教自体の枠組みをも援用することで、土着の神祇信仰をそれなりに体系化し、国家秩序のバックボーンをなすような「宗教」に変えていく過程だ。
この点で大きな役割を果たしたのが、桓武天皇である。
二度の遷都と「蝦夷討伐」でも知られるこの天皇は、同時に、百済系氏族であった母の親族たちを通して、儒教道教という「唐制」の思想の強い影響を受けており、それを拠り所に神道の宗教化を遂行して、それ以前の時期(道鏡によって代表される)の仏教政治から脱却した、自立的な国家体制の基礎にしようと図った。
そのことは、むしろ、民衆にも通じるところのある土着的・呪術な信仰心に捉えられていた多くの貴族たちの反発を買うものでもあったが、やがて、その反発と折り合いをつけるような形で「神道」による国家体制形成への着地がなされていく。
日本の宗教史は、この面でいえば、仏教に限らず、論理化・体系化を図ろうとする外部的な力に対する反発の繰り返しであり、結局は、ドラスティックな改変よりは、この反発(揺り戻し)の方が勝利してきた歴史とも見なせるだろう。
「からごころ」は、結局は退けられてしまうのだ。
その意味で、著者は、日本には言葉の厳密な意味でのシンクレティズムsyncretismが存在しなかったという堀一郎の学説を認めるのだが、ただ、肝心なのは、むしろそこに積極的な意味を見出しているらしいことである。

古代以来の神仏隔離の意識は、伊勢神宮という特殊な神社をめぐる特別の教説のなかにだけ継承されたのではない。その裾野は思いのほか広く、人々の生活のなかに保持されてきた。(p11)

(災害や戦乱などによって)この世に生きるための地上のよすがを失った人びとは、純粋に魂の王国をもとめ、真実に宗教的な意味での救済の論理に身をゆだねる機縁はいくらでもあった。にもかかわらず、事態が一定方向に落着すると、霊魂の世界と地上的な救済の微妙な均衡が新しい装いをもって再生産されてきた。(p35)


実は、本書の主題は、この外部からの文化的な影響に対するたゆむことのない反発、いわば「文明への不満」(フロイト)のあらわれを、文献や習俗のなかに見いだそうとするところにある。
それはたとえば、道鏡の影響力のもとで仏教政治と呼ばれるものが推進された、称徳天皇の時代の貴族たちの姿を記述した文献のなかに見い出される。

しかし、この種の歴史評価の基本にある考え、聖武天皇や、とくに称徳女帝の仏教に淫した政治は、日本の政治のあるべき姿から逸脱しているとの考えは、近世の名分論や、国学神道主義によってはじめてあらわれたのではない。ほかならぬ当の仏教政治のおこなわれた時代に、すでに存在していたふしがある。ことはそれほどにふかい根をもつ問題といえよう。(p98)

そこには、律令制の名で示される古代帝国の完成という普遍世界への適応にあたり、自らの特殊性を意識せずにはいられなかった官人貴族たちの、根ぶかいコンプレックスがかくされている。(p110)

称徳天皇最晩年の寝殿における籠居の状況や、その絶望的な忌みごもりの起こした波瀾と重ねあわせてみても、右の光景を前にして一般貴族の抱いた違和感や拒絶の感情は、想像を絶するものがあったはずである。排仏の感情といったものは思想の次元で結晶するまえに、こういう形で醸成される。日常的な生活意識の次元でめばえた反撥は、もっとも肉体的、物質的な力をそなえている。伝来の神祇信仰が中国の儒教道教の立場からする排仏論を受容しながら、やがて神道の名によってみずからの自立性を主張するようになったことの根元は、以上にみたようなことのなかに胚胎しているのではなかろうか。(p132〜133)

排仏論という外来の思想を受容しながらも、それを宗教としての神道という形で自立性の主張へとつなげていくような傾向は、実はこうした「日常的な生活意識の次元」に根ざす、「肉体的、物質的な力」に基づいているのだ、というわけである。
そのあらわれを、著者はここでは、貴族たちの「コンプレックス」や「違和感」「拒絶」といったネガティブな感情の表現として記述しているのだが、民俗学者である著者がその背後に想定しているのは、「起源」(律令国家以前、仏教到来以前)に存在するであろう、貧しくはあるが開放的な共同体のイメージなのだ。

村が貧しかった時代には、村に不幸の種がやってくるのは困るけれど、それよりも強く幸せの神の来訪が待ちのぞまれた。農耕補助者の入住と退転がくりかえされ、村にはかえって開放的な側面があった。それが生活の安定が確保されるにつれ、万事に防衛的で警戒心のかたまりのような村となった。(p260)

そうした、他者を排除しない理想的な共同性が、歴史の中では桓武天皇によってクリティカルに体現され、古代律令国家と明治国家体制にも共通するという「神道主義」的な偏りをもたらしたもの、つまり著者の言う「さかしら」(からごころ、唐制)さえ加えられなければ、この国の民衆世界の基底には見いだせるはずだ、という発想なのである。
だが、この考え方が、排外主義と容易に結びつくものだということは、明らかだろう。
むしろ、排外主義や国家主義は、民衆の「生命力」のなかにこそ、その根を持っているのではなかろうか。
だとすれば、そこに何らかの光を差し入れない限りは、われわれは国家や排外主義の暴力から自由になることはできないはずだ。