『叫びの都市』

叫びの都市: 寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者

叫びの都市: 寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者

私たちはすでに、釜ヶ崎的状況を生きている。そうであるなら、釜ヶ崎の記憶を喪失することは、現在に対する視座を獲得するための手がかりを手放してしまうことに等しい。(p30)


このように述べる著者は、広く知られることのなかった釜ヶ崎の町と労働者・住人たちの歴史、そして生存のための運動と抵抗の歴史と記憶を、膨大な聞き取り調査と文献の検証をとおして辿って行く。
この想起と伝播自体に、この本の最大の意義がある。
たとえば、僕はこの本によって、往年の「寄せ場」の活動家たち、船本洲治や山岡強一(よく知られているように、この二人は共に非業の死を遂げた)の文章にはじめて触れたと言っていいが、その先見性は驚くべきものだと思った。
しかし、運動と闘争の主役は、なんといっても(船本が「流動的下層労働者」と定義した)労働者たち自身だったろう。その力に脅かされ、励まされることによって、活動家や思想家たちは、自分たちの仕事を遂行することが出来たのだと思う。
さて、著者が提示している釜ヶ崎寄せ場の運動史のポイントは、1961年から2008年まで20回以上にわたって繰り返されてきた「暴動」を、その不可欠の、というより、ある意味でその本質をなす部分として位置づけているところにあるだろう。
その視点は、暴動を抑圧のやむにやまれぬ結果としてではなく、労働者大衆の生命力の発露、「人間回復の行動」として肯定した竹中労の考え方(p300)に、最終的には重なるものではないかと思う。いわば、虐げられた者たちの祝祭としての暴動だ。
僕は、この大正的とも思える(大正デモクラシーとは真逆に見えるが)暴動観に、手放しの共感を覚えることはできない。それは、やはり戦前に繰り返された日本の大衆の暴動が、関東大震災朝鮮人虐殺のような出来事にも結び付いたのは、偶然だとか権力の扇動・操作によるものだと言ってすませることのできない事実だと思うからだ。
しかし、一方ではこうした暴力の行使を「不法」だとか「危険」だといって抑え込む(統制する)力の方こそ、人間の自由ばかりか生存さえ否定するような、より巨大な暴力(権力)に関わるものなのかもしれない。


実は、先日、釜ヶ崎の某所であったこの本の出版記念イベントに行ったのだが、そのとき面白い光景があった。
著者の原口氏やゲストの酒井隆史さんの語る「暴動」についての言葉、そして会場で上映された08年の釜ヶ崎の暴動の様子を記録した映像を見聞きしながら、たまたま最前列の席に座っていた高齢の女性(近傍の方だろうか?)が、「暴動なんか、あかん」「この子ら(映像の中で機動隊とやりあっている若者たち)を捕まえなあかん」というような独り言を繰り返していたのだ。
このノイズは、僕にはたいへん面白くて、こういう場所でイベントをやる面白さは、こういうことにもあると感じたのだが、この女性の独り言は、暴動を賛美する言説に対する批判であると同時に、社会総体が持っている自他への抑圧の実在ぶりを、僕ら自身にはっきりと思い出させてくれるものでもあったと思う。
「暴動」による解放とは、たんなる暴力による鬱憤の解消といったことではなく、このような内面化されたさまざまな抑圧や差別や支配からの脱却を目指すものと考えられるべきだろう。
そして、その支配のあり方の一つは、やはりジェンダーに関わるものであることも確かと思われる。「暴動なんか、あかん」というあの女性のつぶやきが、それを語っているだろう。


本書の前半でとくに指摘されているのは、「じゃりん子チエ」に象徴されるように家族の住む町だった釜ヶ崎が、「単身日雇労働者」の町になっていったのは、大阪万博の準備のために行政当局が実施した60年代後半以降の政策の結果だったということだ。つまり、釜ヶ崎が独身の男たちが人口の大多数を占める町になったことは、都合のよい労働力の確保(と切り捨て)を目論む政治的意図の産物に他ならないということだが、僕には、そこには運動と闘争の分断や弱体化の狙いも含まれていたのではないかと思えるのだ。
先に大正期の運動のことについて触れたが、この時期から昭和初めにかけての運動の大きな特徴は、「女の暴動」ともいうべき米騒動や、紡績女工たちの争議、また有名無名のさまざまな女性活動家の活躍など、性別役割を越えた運動の高揚と共闘ということがあった。これは、戦後においても、炭鉱労働者の闘争などに受け継がれたものである。
その意義は、女性や子どもを含めた多様な人々の生活の場を拠点とした運動の展開ということであり、闘争と生活との接続ということがあったのではないかと思う。同時に、それは多様な人々への配慮や緊張関係を闘争のなかに持ち込むことによって、それ(闘争・運動・生存)を繊細なものにし、深め、鋭くするという効果があったのではないかと思える。
暴動の町でもある釜ヶ崎が、「単身日雇労働者」の町として制度的に作り上げられたことには、こうした運動の広がりや持続性、深まりの可能性といったものを、あらかじめ封じておくという権力の意図が込められていたのではないか。
その場合、暴動という形で表れた人々の生の力は、たしかに集団的ではあるけれども、広がりや接続の可能性に乏しい、いわば単数的なものにとどまるのではないか?


僕が、こんな風に思ってしまうのは、自分の若いころからの「単身フリーター」的な人生(これは本書のいう「釜ヶ崎的状況」と無縁なものではないはずだ)を省みてのことだ。そこでは、何よりも、他者との共同・連帯の可能性が、あらかじめ奪われていたように思う。女性に対する意識にしても、家父長的な支配の論理や攻撃(ミソジニー)という要素を多分に含んでいて、対等な関係や連帯の相手として見ることが、極端に少なかったと思えるのである。
僕が経験してきた、このような内面性も、いわば人々を分断し、社会をアトム化していく、政治的意図(ないしは無意識的な社会構造)の産物としてあったのではなかろうか?
そういう目線で見るとき、僕の中には著者の、釜ヶ崎の「暴動」に対する積極的な眼差しに対する疑問が生じてくるのである。


そうした意味で、とくに興味深かったのは、横浜・寿町の運動史を記述したくだりである。
釜ヶ崎や山谷とは違って、この町では家族世帯の地域からの分離政策が行われず、60年代終わりから70年代初め頃まで、「生活館」というスペースを拠点として、独自の新聞や子ども会などを含む自治的な「住民運動」が隆盛したらしい。
だが、やがて、折からの不況と、政府・行政による自治活動を阻むかのような政策推進によって、そうした自治管理文化は潰され、ここでも家族世帯の他地域への移住が進められることになり、住民自治の運動に代わって流動的な単身日雇労働者たちによる「占拠運動」がメインになっていく。
著者は、住民自治運動の展開を高く評価しながらも、一方で、それが潰された後に出てきた単身労働者たちの戦闘的な占拠運動を、「自己を組織化」するものとして高く評価する。実際、この流れは、釜ヶ崎などと同様に「越冬闘争」に代表されるような生存のための闘いとしての実質を獲得していくのだが、問題はここで、従来の住民自治の運動と、流動的労働者たちの運動とが、ときに敵対的な相貌を見せ、必ずしもうまく接続していたと思えない(著者は「交差した」という表現を使っているが)ことである。
それについて著者は、「自治と流動のはざま」という言葉で捉え、『流動性の高い寄せ場において自治を成し遂げることの原理的な困難』(p316)を指摘したうえで、しかし、この流動性こそが、新たな政治的闘争の地平を開いたのだという点を強調するわけである。
だが、果たして流動的労働者たちの運動と闘争は、それまであった住民運動から十分な遺産を継承したといえるのだろうか?不況と政策的な分断によって、基本的な条件(安定的な共同生活)が損なわれ変更されたことはやむを得ないとして、その新たな局面で新たな「組織化」を行うにあたって、住民運動から学び受け継ぐべきものが、もっとあったのではないだろうか?
それはつまり、さまざまな他者と共に生活し、共に闘うために必要な精神性のようなものだ。人々からそれを奪い去ったことが、支配権力のもっとも巧妙な策略だったのではないか。
これは、暴動や流動性を運動のなかでどのように評価するかという、本書の核心的な論点に関わる問題だと思う。
著者は、次のように書いている。

流動する労働者の群れを、だれも統御することはできなかった。労働者の流動性は、つねに過剰であった。そもそも暴動とは社会運動にとって、それとしか言いようのない過剰ではないか。(p329)

僕が気になるのは、著者が「労働者の流動性」と書く場合、その主語は、「労働者」なのか「流動性」なのか、ということである。
僕にはどうも、後者であるように思える。労働者の生存は、流動性という目に見えないものを実現していくための手段のようなものと捉えられてしまう危険が、ここにはないだろうか?つまり、それは、ある種の形而上学になっていないか?
本書の318ページには、寿町の運動の独自性を象徴するものとして、「日雇労働組合」ではなく「日雇労働者組合」と名称に「者」を付したところに、「生きている総体として一人一人の人間を大事に」するという姿勢が示されているのだという、関係者の言葉が引かれているのだが、われわれの生存の闘いは常に、そういう姿勢を忘れてはいけないと思う。