『フリーターズフリー』・杉田さんの文章を読んでのメモ

雑誌『フリーターズフリー』創刊号を読んでいる。
http://www.freetersfree.org/

http://d.hatena.ne.jp/FreetersFree/

この雑誌の最大の特徴は、巻頭言や座談会でも述べられているように、「フリーター」と呼ばれる「当事者」の人たち自身が発言しているということである。「その人たち自身」が語っているということは、必然的に個々の(複数の)声の集合なのだから、多様なせめぎあうような言葉の群れが、そこから聞こえてくることになる。その点に、この雑誌の最大の魅力があり、それはじつに得がたいものであると思う。
まだ全部を読んではいないのだが、ここではとくに杉田俊介さんによる「無能力批評」と題された文章を読んでの感想を、ごく簡単に書いておきたい。


「無能力批評」は、ぼくにとっては礫を投げつけられているか、かみそりで切りつけられているかのような思いさえしてくる、すごい文章であり論考である。
ただ、ひととおり読んでみて、これは自分と杉田さんとの違いと考えていいのかどうか分からないけど、自分の感じているもののなかにある特殊な部分に気がついた面がある。

たとえば、ここは非常に強い文章だと思うのだが、

自分をまずは許したがる優しさからは、他者への寛容さは自然に染み出さない。むしろ、呵責ない自己吟味から濾過される他者への寛容さ、それを通してこそ、はじめて、自分で自分をゆるす気持ちが自然に内分泌され、全身を血液循環して俺の生理を活性化/改善していく――即効薬ではなく、漢方薬のように。それは自己規律=内なる優生思想とほぼ同じでありながら決定的に異質な何かだ。正確には、自分に適用する自立の命令(俺はもっと自立しろ)を他者に向けてそのまま適用する時(お前はもっと自立しろ)、言葉のその伝達過程で、不可避に微小な内部抵抗=異和が発生する。(p047)


というような言葉に触れると、自分は、このような「他者への寛容」に達したことはない、と認めざるをえない。
「自分をまずは許したがる」ということが、ぼくの場合には、常に出発点にあるからだ。
これは、論の後半で述べられているように、ほんとうの(困難なものとしての)「自己を愛する」ということとはまったく異なる「ナルシシズム」と、その投影としての他者(弱者)への愛着や興味というものの枠内に、ぼくがとどまっているということでもある。
だから、

俺は永年の躓きと疲弊を破られ破瓜され、どんなに否定し拒絶しても(いや抵抗すればするほど)拒絶しきれずに、「弱き者、無能力な者、寡婦」たちを信仰せよ、そちらへ向き直せ、というどこからか来る命令に心を折られ、屈服した。(p048)


というふうな体験は、ぼくにはないのである。
ここに、杉田さん(たち)の行動と、ぼくの非行動との差異があるということは明白だ。
杉田さんのこの長い批評の全体が、たとえば、なぜこの雑誌が「有限責任事業組合」という形態をとりつつ創刊されることになったか、その実践の意味を説明し、再検証するものにもなっていると思う。


そこで、はじめに書いた「自分のなかにある特殊なもの」ということだが、それは、ぼくの場合、自分がある幸運な状況のなかに生きているということを、基本的に肯定的に考えているようだ、ということである。
自分は、自分よりも苦しい、あるいは不幸な状況を生きている他人と比べて、自分の力や責任とは無縁な理由から、幸運とよべるようなものを得て生きている。そのこと自体は、自分ひとりの幸福ではなく、世界全体の幸福の一部であるはずだという、傲岸不遜な考えが自分の根っこにある、ということだ。
そして、その根っこから発して、他人を救うことや、社会を変えることを考え、努力したいという思いが、やはりどこかにある。
こうした考え方がもっている限界や、欺瞞や加害性ということへの意識はあって、そうした欺瞞のゆえに、ぼくには実際的な行動がなにもできないのだろうが。
こうした自分のなかにあるものをどうとらえていけばよいのか、まだよく分からないのである。