『橋川文三 柳田国男論集成』

 

柳田国男論集成

柳田国男論集成

  • 作者:橋川 文三
  • 発売日: 2002/09/01
  • メディア: ハードカバー
 

 

、全部読んだわけではないが、(図書館での)貸し出しの期限をだいぶ過ぎたので他の本と一緒に返却。

読み応えあった。

 

戦後の柳田ブームのきっかけになったと言われる「柳田国男 ―その人間と思想」(1964年)は、そう長い文章ではないが、さすがの内容である。柳田の文章も数多く引用されているが、特に1910年(明治43年)に出版された名高い講演録「時代ト農政」の最後のところの引用が印象深い。

 

「国民の二分の一プラス一人の説は即ち多数説でありますけれども、我々は他の二分の一マイナス一人の利益を顧みぬと云うわけには行かぬのみならず、仮に万人が万人ながら同一希望をもちましても、国家の生命は永遠でありますからは、予め未だ生まれて来ぬ数千億万人の利益をも考えねばなりませぬ。況んや我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞を持って居りまして、其精霊も亦国運発展の事業の上に無限の利害の感を抱いているのであります。」

 

ここに開陳されているのは、帝国の官僚としての柳田の考え方だといえるが、それ以上に、保守主義柳田国男の考え方の核心部分であり、それは戦前・戦後を通じて柳田民俗学の根底を流れるものでもあっただろう。

それは国家観としては、国家有機体説に属するものである。

国家ということを外して、社会や共同体の倫理ということなら傾聴すべきものだと(とりあえずは)思うが、それが国家に関する思想となれば、橋川が(別の論考で)的確に指摘するように、そこには支配の装置としての、あるいは権力機構としての「国家」を見据える視点が、決定的に欠如することになる原因が存しているという他ない。

やはり橋川の言うように、それこそが柳田の学問の決定的な弱点だろう。

そしてもちろん、これは柳田一人の問題ではない。

同じ1964年に書かれた「魯迅柳田国男」という短いエッセイのなかで、橋川は、

 

『柳田があれほど深く広い歴史の智識をもちながら、ついに魯迅の沈痛、強烈な歴史観をもちえなかったことが、かえって私には謎である。柳田が浅いというふうに私はいいたくない。かえって柳田のその浅さの含む深い意味に謎を感ずるのである。そしてそれを日本の謎であるといってもよいと思う。』

 

と書いているが、その「謎」を解く鍵は、やはりここ、つまり国家(及び様々な国家に類似する共同体)と自己との撞着的な関係にあるのだろう。

 

 

ここからは、戯言。

この本を読む前、すが秀実・木藤亮太著『アナキスト民俗学』という本を読んだ。これもたいへん面白い本だったが、(同書のなかでも言及されている)橋川の論考を読むと、やはり橋川の鋭さが際立つのだった。

また本書に収められた、橋川の保守主義論を読んで、やはり先日読んだブルーノ・ラトゥール著『地球に降り立つ』という本を思い出し、ラトゥールの主張は、結局、保守主義だったのかと思い至った。

ラトゥールに関して言えば、人間(近代)がこれだけ地球の環境を破壊しておいて、それに怒った地球(非人間)が激怒して「反撃」に出たからといって、「では、これからは相互(共生)的に」という(クロポトキン的でもある)発想は、あまりにも(非人間に対して)虫が良すぎると思うのだが、橋川ならどう言うだろうか?

さて、『橋川文三 柳田国男論集成』に戻っていえば、終りに収められている、藤田省三と神島二郎との対談は、いずれもたいへん面白いものである。お勧め。