養子と天皇

前回のエントリーだが、アップしたあとになってから、初めから終りまで「養子」というテーマをめぐって書いていたことに気がついた。


柄谷が『遊動論』のなかで書いていた「双系制」というのは、父系や母系に対置される用語で、平たくいえば、「家」という場を存続させることを第一義とし、そのための手段として養子をもらったり、婿養子をとったりすることを当然と考えるような、家族観だといえよう。これは、「血統」(一般的には父系)の正統的な存続を第一義とする家族観とは、異なるものだと考えられるのである。
柄谷は、この双系制を日本の社会や文化の重要な制度的特徴だと考えているわけだ。
また、この双系制を強調していた頃の柄谷の著作では、漢字かな混用文における、漢字・カタカナ・ひらがなの使い分けによる対象の「区別」が、それに通じる日本文化の特徴として語られていた。つまり、島国である日本では、外来の文物を導入するにあたって、その表記の文字を変えることにより、その由来が分かるような表記システムを作った。それは、外来の物や情報を、単に排除するのではなく、内部の秩序と混合しないようにしるしづけて隔離したうえで使用するための、巧みな制度なのである。
そうした制度の力によって育まれるのは、個人や集団(たとえば血族のような)を、「家」や会社、あるいは国家のような「場」の維持のための道具・手段としか考えないような価値観であり、また、「外部」の人間と見なされた者に対しては、それを「区別」したうえで、使い捨て可能な便利な存在として、「場」の存続のために使用するという、非人道的な発想だ。
私は、そうした価値観が、日本という国家や社会ばかりでなく、私たち個々の中にも深く根を下ろしていることを認めざるを得ないと思う。
それはたとえば、最近報じられた、介護や建設などの労働力の不足を補うために、便宜的に外国人労働者を「導入」しながら、「区別」によって従来の社会の秩序を守っていこうというような、差別的な外国人観・労働者観の根にあるものではなかろうか?
外国人も労働者も、会社とか市場とか日本とかいう「場」を維持するための道具、使い捨てのきく歯車のようなものとしか見なされず、必要になったときだけ「導入」され、決してほんとうには内部に影響を与えないように「区別」して居住させられたあげく、不要になれば切り捨てられる。
これはもちろん、今に始まった話ではなく、植民地時代の朝鮮人たちは、まさにそういう存在として「内地」に「導入」されたあげく、戦後は都合よく「日本国」から切り捨てられたのであったし、また高度成長期等に関して言えば、労働市場の安全弁のように扱われた山谷や釜ヶ崎の日雇い労働者たちは、まさにそういう存在だったというべきだろう。
「場」の維持のためには、個人が犠牲となるのは当然で、不要になった人間はお払い箱にされて見捨てられるのが物の道理だというような考えは、われわれの意識を深いところで支配しているのである。


そして、このような悪しき「場の思想」と呼ぶべきものの、最も重要な象徴が天皇の存在だといえよう。天皇制が、決して血統の正統的な存続を第一原理とするものではなく、「天皇」という場の存続のためには、あらゆるイレギュラーな手段を辞さなかったということは、だからこそ『神皇正統記』に代表されるような、系譜の正統性をイデオロギーによって強引に論証しようとする営為が繰り返されてきたことによっても明らかだろう。
たとえば昭和天皇が戦後になって、アメリカに沖縄を差し出してまで保持しようとしたものは、国民の命などでないことはもちろんだが、天皇個人の生命ですらなく、「天皇(制)」という古来存続してきた「場」の連続性に他ならなかったはずである。
ここでは、重要なのは、個人とか生命とかいったものではなく、どこまでも「場」の存続なのだ。
「会社人間」になり切ったサラリーマンが、会社の存続のためには自殺まで辞さないというような、「場の思想」の徹底した内面化。逆にいえば、生命や個人の徹底した道具視。
そのイデオロギーを、われわれの前で体現することこそ、天皇という存在の意義だと言ってもいいであろう。
だからその天皇の存在が、憲法の第一条に書かれ肯定されてしまっていることの、政治的意味は重大極まりないのだ。
いま読んでいる『憲法のポリティカ』という本は、安倍政権下の憲法の現状を論じる非常に論争的な内容で、対談者の二人、高橋哲哉、岡野八代両氏の意見やトーンが、しばしば一致しないことが、非常にスリリングなのであるが、それでも天皇の存在が、憲法立憲主義)と根本的に相容れないものだということについては、二人の意見は、ほぼ一致していると思われる。
この本については、別に記事を書くつもりだが、ここではそのくだりだけ、ちょっと引用しておこう。高橋氏は、こう明言している。

ただ、現天皇の個人としての意見がどうであれ、私は天皇制を支持することはできません。現行憲法の定める象徴天皇制でもなくした方がいい。日本は共和制にした方がいいと思っています。この点についても私は改憲派です。今の日本の世論でいえば約一割くらいしか賛成する人がいないかもしれませんが、これは言い続けたい。(『憲法のポリティカ』 白澤社 p116)

また、岡野氏もこう述べている。

天皇制はどう考えても、現行憲法基本的人権に基づいた制度のなかで整合性がない。憲法の第一章に象徴天皇の規定があって、しかも天皇は完全に世襲の地位で、男系男子のみで女子の即位は認めない。私たちはそうした本来なら異様と言わざるを得ない事態をことあるごとに報道によってつきつけられていて、その影響は大きい。それを支えているのが象徴天皇制で、これは現行憲法の精神のなかではいびつなものですね。(同上 p117〜118)

いまの天皇制が、血統主義的な外観を示していることは確かだが、そこには逆に近代主義の影響も考えられ、むしろ天皇という伝統的な支配構造の本質は、むしろ「場」の思想にこそあると思えるのである。
私は、天皇と皇族の存在が体現している国民への根本的なメッセージは、「よき道具たれ」という一語に尽きていると思うのだが、どうであろうか。


だが、最後に付け加えておくと、以上に書いてきたような「場」を重視する「双系制」の思想、端的にいえば、「養子」を積極的に肯定するような家族観が、人間の自由とまったく相容れないものかというと、もちろんそうは言いきれない。
柄谷も、

血統よりも「家」を重視する考え方は、ある意味で、人々を血の束縛、身分階層の拘束から自由にする。(『遊動論』文春新書 p156)

と書いている。
そこには、特定の政治や権力のあり方と結びつかなければ、人間の自由の保障につながるような機能のあることは、認めねばならない。
ここで思い出されるのは、柳田国男桑原武夫との対談のなかで語っていたことだ。
柳田自身、婿養子なのだが、そこでは柳田は一神教にもとづいたものとは異なる、日本人の道徳的な美質ということについて、自分にはいつも、隠れた所から先祖に見られているような感じがあるのだと述べ、さらに次のように言っている。

私らが今見てるのは柳田家の先祖みたいな気がします。迷信ですがね。私は神を見ることができないんです。そういうことを思っていた人がときどきあるんです。その人の言によると、私らの言行に向って一番気にかけて見ていられるのは外からこられた養子だ。先祖で家を嗣ぎに入ってきた人が血統の続く親よりも、余計心配してるという。私はそれを聞いていまだに戒めとしてるんです。私も養子だが、なかなかうまくいきませんがね。(笑)日本人の美点があることをあなたが認めて下さるならそれも注意していただきたい。(『柳田國男対談集』ちくま学芸文庫 p361)

この話には、たしかに心を打つものがある。
だがこれは、「日本人の美点」と呼ぶべきものであろうか。
むしろ私にはこの話のなかに、たとえばデリダも『マルクスの亡霊たち』で書いていた、あのハムレットの父の亡霊の、弱々しい姿が、重なって浮かんでくるような気がするのである。