『圧殺の海 第二章 「辺野古」』

http://www.theater-seven.com/2016/movie_henoko.html




命がけの抵抗が行われている運動の現場を、こんなにも至近距離で記録した映画は、ちょっとないのではないだろうか。
とくに海保をはじめとした国家権力側の暴力の実情は、前作よりも強烈に描かれている。彼らの表情や姿は、もはや戦場と地続きではないかとさえ思わせる。
そしてもちろん、その背後にある、国家や軍事同盟が、またこの社会全体が沖縄に加えている有形無形の暴力の広がりを、実感せざるをえない。
2時間を越す映画に描かれているのは、沖縄と辺野古に押しつけられる暴力の実情だが、それはこの社会に暮らす私たちと決して無縁なものではない。加害者としても被害者としても。そこに、この映画が突きつけてくる「痛み」の核心がある。
その一方、こういうことがいえる。
この映画に登場する人たちの多くは、僕が今年に入って、辺野古を訪れた時にお話したり、(当然ながら)何度もお見受けした人たちだ。
普段のその人たちの、もの静かだったり、明るい雰囲気が、映像のなかの抵抗の場面では一変し、激しい怒りを露わにして立ち向かっている。その姿に、ある意味で衝撃を受けた。
その怒りの源は何かと考えたときに、基地という、人間を戦争や破壊や人殺しへと駆りたてるものに対する怒りが、この人たちの根っこにあるのではないかと思った。
つまり、人間を戦争に向わせる力に対して、また、その力に呑みこまれて自分を失ってしまっている人間たち(警官や海保隊員、米兵など)に対して、この人たちは怒り、闘っている。
そう考えなければ、色々なことが理解できない。
だから、たんに対立している力と力とか、憎悪のぶつかり合いのようなものが、ここにあると考えるのは、あまりに皮相的だ。それは、闘いの現場ではあるが、人間が、人間(生命)を否定してくる有形無形の圧迫に対して全力で抗っているという意味での、大きな「闘い」の最前線なのだ。
辺野古の現場は、生命と、それを否定する力との闘いの尖端のような場所であり、その意味で、日本国内や、世界のあらゆる場所とつながっている。そして何より、私たち自身の生活のなかで、そこにつながっていかなければならない。
そういうことを、あらためて感じさせられる映画だった。


映画の中で、カヌーに乗っていて拘束された女性が、海保の隊員たちに「おとなしくしていたら、あなたたちは戦争の準備を始めるでしょう?違いますか?」と問い詰める声が、特に心に残った。
自身が辺野古の現場で奮闘している、きむきがん(ありらん食堂)によるエンディング曲も、映画の内容に拮抗する迫力である。


十三のシアターセブンで、7月29日まで上映。また、6月25日(土)からは、ポレポレ東中野での上映も始まる。