辺野古・高江を訪れて

この9日から12日まで、はじめて辺野古・高江に行ってきましたので、簡単に感想を書きたいと思います。
はじめに、僕が行ったときの辺野古の状況ですが、搬入にともなう機動隊による座り込み排除が、抜き打ち的に、日に何度も行われており、非常に厳しい状況だと思います。
現場の方々は、異口同音に「人が足りない。千人居れば止められるのに」と言われていました。


ところで、座り込みをしているゲート前では、多くの方々のスピーチを聞きました。
特に印象深かったのは、ある沖縄の高齢の男性の方の、以下のようなお話です。
沖縄には基地をめぐる意見の対立があるかのように言われているが、そんなことはない。土地を奪われて基地にされたという事への抗議・不同意の気持を持っていない人は、沖縄にはただの一人もいない。それが、今のように、「半数が基地を支持している」と言われるのは、何か別のものを、「支持」という言葉に置き換えられてしまっているのだ、というお話でした。
この「対立」の虚像をつくり出すのは、いつも僕ら(ヤマト)の側だと思うと同時に、その「何か別のもの」を、「支持」という言葉から奪回した時に、大きな団結と抵抗の力が生まれる。そのことを、僕たちは沖縄の人たちの苦闘から学ぶべきだろう、とも思います。


それから、高江でうかがったお話からは、基地建設によってだけでなく、一見すると基地とは関係がないように見える、林道建設や伐採などの公共工事補助金による支配のための)によって、いかにヤンバルの自然が無残に破壊されているのかを、はじめて知りました。
沖縄の自然と生命に対する、ヤマトの側、近代的権力の側の破壊と収奪・支配は、戦争や軍事という形に限らず、公共事業(土木国家)や資本主義、同化主義など、さまざまな形で行なわれてきた。
戦争や基地というのは、その最も極端な現われであるとはいえ、それだけに反対すればすむというわけではないのだということを、はじめて実感しました。
僕はその話を、最後の日にゲート前でスピーチしたのですが、聞いていた名護のある女性が、その後で話しかけて下さり、さらに具体的なことを教えていただきました。
たとえば、これも僕は行ってみて初めて知ったのですが、沖縄は赤土が非常に多い。だから、雨が降っても水がすぐに流れ出してしまう。そこで、沖縄では、本土(ヤマト)とは違う独特な田んぼの形態があった。それは、丸く作った田んぼの周囲を少し高くして、水が流れ出ないようにするというものだったそうです。
ところが、72年の「本土復帰」後は、この独自の農法は失われ、「本土」と同じやり方をするようになったために、稲作が衰退してしまったそうです。
これは一例ですが、すべて沖縄の風土や特性に応じた文化を否定することで、日本は沖縄が自分たちで生きていく力を奪ってきたと言えると思います。それは薩摩藩による支配の頃から続いている。
今の沖縄には、コンビニやイオンなどの大型チェーンが幅をきかせ、コミュニティのかなめであった地域のお店は存亡の危機にたっているのではないかと思われます。
こうした、沖縄と民衆の生きる力を否定し、奪っていく構造の持続の中に、米軍基地の問題もある。そうした視点を持つことも必要ではないかと思いました。


そう考えると、自分が生きている現実と、沖縄の人たちの闘いとは、ある意味で重なっている。僕らは沖縄に学び、自分自身が、支配的な構造に抗って生き抜こうとすることが、沖縄の人たちの闘いを支えることにもなる。そういう形で、「連帯」の可能性が開かれていく。
辺野古の現場に行ってみて、自分には沖縄の人たちのように、生命を守るために激しく抗う力が欠けていることを痛感したけれど、その力は、自分が生きている日々の営みのなかで蓄えていくしかないのだろう。
そうして蓄えられた力だけが、沖縄の人々へのほんとうの「連帯」を可能にするはずだ、と思いました。