マンハイム『歴史主義・保守主義』その1


マンハイムについては、以前に、とくにファシズムの問題に関連して何度かエントリーを書いたが、全体としては相対主義的な思想の持ち主であろうと漠然と思っていた。
だがこの本を読んで、そうではないということが、ちょっと分かった。
この本には、「歴史主義」、「保守主義的思考」、「知識社会学」という三つの論考が収められているのだが、ここではそのうち、前の二つについて書くことになると思う。


まずマンハイムは、これらの論考が書かれた1920年代頃の欧州で隆盛であった「歴史主義」という学派を、自分の立場に近いものとして論じている。
以下、何箇所か抜き書きしてみる。

歴史主義は、有機的に生成した根底であり、宗教的に束縛された中世の世界像の崩壊後、さらにそこから還俗した啓蒙時代の世界像が、超時間的理性の根本思想とともに自己自身を破棄したのちに、発現した世界観そのものなのである。(p4)

それぞれの時代(社会)には独自の価値観や物差しがあるのであり、それらを越えるような静的で超越的な尺度というものはないという、歴史主義の考え方が、啓蒙主義的な世界像の破たんした、世紀末から大戦間期にかけての思想の状況の申し子だったと、マンハイムは言っているのである。
特に面白いと思ったのは、マンハイムがこの動向の根本を「生の哲学」の流行に見いだしていることだ。後述の保守主義もそうだなのが、歴史主義もまた、「生の哲学」と深い関わりを持つとされる。
ベルグソンに集約されることになる「生の哲学」の重要な特徴の一つは、体系的な世界把握に対する反発ということである。

生および活動的な思考の特質は、それらが(既成体系の示すように)いわば一つの大前提から、すなわち体系的に最初のものから出発し、特殊的なものに進み、特殊的なものを最初のものから演繹するのではなく、無反省的な生がさまざまの直接性からはじまり、ものの中心にくいこみ、この直接的なものから、次に、そのうちに前提的に存在しているものを、反省的段階でむきだしにする、という点にある。(p9)

といってもマンハイムは、(彼の思考のスタイルを見れば明らかだが)決して体系的・形式的な把握が全て駄目と言っているわけではなく、それが適さない領域もあるのだ、ということである。

宗教および芸術、習俗および性愛など、おしなべてすぐれて心的である諸領域には、ただこのような総括的洞察(Synopsis)だけが通用しうる。あまりにも押し進めた論理化は、これらのものを損い歪めてしまうのであって、これら諸領域は、その時々において体系としてよりも、むしろ一つの統一的な心的形態の「部分」として把えられるべきものである。(p39)

それぞれの領域に適した把握(記述)の仕方をするべきだという、まあ穏当な主張で、この穏当なところがマンハイムらしい気もする。
ところで、マンハイムが歴史主義を高く評価するのは、それが彼の有名な「存在被拘束性」の主張と重なるところがあるからだろう。だが、どんな思考も思考者の存在(立場)に拘束されざるをえないというこうした発想が、相対主義とは違うのだということをマンハイムは強調している。

そのような叙述が、一切の体系化を(現存の最高のものも)すべて立場に拘束された、この意味で精神的・展望的なものであると認めねばならぬということは、けっして相対主義を意味しない。むしろそれは、認識主体とその対象との性質上、ただ展望的な真理だけがありうる領域をわれわれに正当に確保させうるような真理概念の拡大を意味する。(p53)

つまり、歴史主義や自分(マンハイム)の考え方は、普遍的な真理への到達を放棄する相対主義とはまったく違っており、(静的から動的への)「真理概念の拡大」だというのである。ここは、ちょっとヘーゲル的(弁証法的)な感じだ。
この本の訳注によると、マルクーゼは、こうしたマンハイムの思想を高く評価していたらしい。
さらに興味深かったのは、自然法思想やカント主義(形式主義)との絡みだ。

まさにこのような理由から、静的理性哲学は自然法的構想の段階でのみ「具体的統一的な」ものであった。(中略)ひとが、理性にふさわしい真理と倫理的公正とはただひとつだけ存在するとなお信じることのできたのは、これが歴史によって蔽われていたからにすぎず、またこの真理を内容的にも理性から演繹することができると考えたのは、歴史に対抗できる何らかの絶対的なものを、少くとも主観的に、保持していたからである。(中略)しかし、この体系が―生の側から―ますます強力になりつつある歴史意識によって次第に掘り崩されたとき、残滓として、またあきらめとして、わずかにこの超時間的絶対性を形式だけに限定することがあとに残された。(p65〜66)

ここで言われているのは、カント主義というのは、自然法的な世界観が歴史のなかで破綻しているのに、それを「形式」にだけ問題を限定することで破綻から目を逸らしておこうという弥縫策のようなものにすぎないということだろう。
いわば、人民が革命を起こしてるのに、三権分立という形式だけを整えて、従前通り秩序は維持されてますといっても、それは実際には抑圧でしかない。
人民・大衆の「ますます強力になりつつある歴史意識」(それは、革命の予感であると同時に、ファシズムの足音でもありうるわけだが)を、いつまでもそんなゴマカシで抑え込むことは出来ないはずで、そこに歴史主義が登場する必然性があるのだ、ということであろう。

歴史主義は、こうして、われわれの考えによれば、動的になった世界観に対して実質的な内容的に充実した基準・規範を見出そうとする、すべての試みのうちの唯一の解答である。(p70)

まさにこの(基準の主観性の、絶対性の欠如の)承認のうちにこそ、われわれは歴史主義の強さを見るのである。歴史主義は、あの新しくわれわれをつき動かしている要素(動的なもの)を、相対化されるべき残滓として、古い中心から抑圧しようとするものでなく、まさに中心に据えて、われわれの全世界観を根底から変えさせるアルキメデスの原点たらしめる哲学および世界観を意味する。(p71)

羽仁五郎の師匠であったクローチェをはじめ、歴史主義の学者たちは、ファシズムと関わりを持った人も多かったようである。
歴史主義か形式主義(たとえばアーレントか?)かという問題は、今なお答えることの難しいものだろう。
生の哲学」に話を戻せば、日本でも(大杉栄を含め)大正期に流行したこの思想(生の直接性への拘りという意味では、柳田民俗学自然主義文学などにも関わってくると思われるが)と、ファッショ化や大衆社会の関連をどう考えるか。


長くなったので、「保守主義的思考」については次回。