「非暴力」を外野から押しつけるマスコミの度し難い暴力

すでにちゃんとした左翼の方々が発言しておられるので、ぼくなどが付け足すことはないのだが、それでも書いておかないと気持ち悪いので書いておく。
こういう記事がもっとも悪質だ。(末尾追記)


サミットデモ:札幌中心部に警官ズラリ 主催者「非暴力」徹底
http://mainichi.jp/hokkaido/news/20080706hog00m040004000c.html


デモの方針として「非暴力」を徹底するかどうかは、デモをやってる人たちが決めるしかないことだ。何が良いのかは、その人たち以外には決められない。
デモをやってる人たち自身が「非暴力」を方針として掲げ、それを徹底しようとすることと、マスコミが「非暴力」を金科玉条かさもなくば免罪符のように掲げて一種のレッテルを貼ることとは、まったく意味が違う。
「暴力」がやむをえない抗議や抵抗の手法である場合があるように、「非暴力」という選択も、現場のぎりぎりの状況のなかで、やむをえずなされるのだ。重要なのは、そこに闘いがあるということ、生きるためのぎりぎりの行動があるということであって、そのための手法が何であるかは二次的な問題だ。
こうした記事によって、声をあげること、行動することの切迫性が消され、市民的な「非暴力」という枠の中に、抗議行動が囲い込まれて無害化される。
警察よりは、いくらか狡猾な弾圧のやり方だろう。


海外(たとえば韓国)の抗議デモでも、「非暴力」はスローガンとなる。
だが忘れてならないのは、デモ隊が叫ぶ「非暴力」は、まず第一に、弾圧する側に向かって投げかけられる言葉、多くは「呼びかけ」であるということだ。
ガンジーの「非暴力」という手法も、主たる意味は、弾圧(支配)してくる相手に対する(人間同士としての)「呼びかけ」にあっただろう。
日本では、「非暴力」という主張が、もっぱら抗議(抵抗)する側自身に向けられたものとしか受けとられないのは、ほとんど倒錯的な事態である。
抗議する側に、とりわけ第三者(市民、マスコミ)から投げかけられる「非暴力」の言葉、これが弾圧や鎮圧でなくて、いったいなんであろう。
まして行動の現場では、弾圧する側、取り締まる側は、「銃や警棒」と「法律や国家権力」という二種類のものによって武装し、圧倒的な力の非対称の中でデモ隊に対峙しているのだ。
今回の逮捕劇を見ても、それは自明ではないか。
そういう圧倒的な非対称性のなかで抗議し行動してる人たちに向かって、外野から「非暴力」をご託宣の叫ぶという、度し難い暴力性。


その巨大な暴力に対する無感覚を土台にして、日本のマスコミ産業は成り立っているというわけだ。


追記:て、よく考えたら、この毎日の記事、デモの側が暴力的だったから逮捕者まで出た、と言わんばかりだよな。警察がどれだけの暴力性を行使したのかはまったく不問にしてる。ほんとにひどい記事だ。