『眼と精神』その1

眼と精神

眼と精神


先日、古本屋で、みすず書房の『眼と精神』(メルロ=ポンティ著)を見つけ、安かったので買って読みました。この本は四つの文章から成ってるのですが、それについての読書メモを、ほぼそのままの形で、ここに載せてみます。
僕自身は、ファシズム的なものとの関連を、特に興味深く思いながら読んだのですが、この解釈が当たってるかどうか。
長いので、何回かに分けます。引用文中、重要と思う箇所にはアンダーラインを引いたりするかもしれません。


「人間の科学と現象学」(1950年)


これは、フッサールの哲学を論じた文章。
哲学や現象学に馴染みのない人には難しいかもしれません。僕には難しかった。

こうして、思考の普遍性は、すべての精神の中心にある普遍的思考者との交流ということによってではなく、ただひたすら私の思考が生きた私に密着しているという事実によって基礎づけられることになります。(p20)

したがって、ここには現象学実証主義とでもいうべきものがあるわけです。それは、合理性とか多数の人の一致とか普遍的論理といったものを、<事実>に先立つ何らかの権利によって基礎づけることを拒否する態度だといえましょう。(p20)

だからこそ、彼(哲学者)は対話を必要とするわけです。彼がおのれの制限を跳び越える最も確実な手段は、他の状況(他の哲学者や他人)との交渉のなかに入りこむことです。(p21)

以上では、ドグマに対する、「生きた私」や「生活の事実」そして「対話」の重視が語られている。ハーバーマス的な民主主義の思想につながるものか?

たとえば、情動というものは、われわれの<世界との関係>の変容であって、それが起こるのは、われわれが秩序をもった行動――因果関係を顧慮した、言わば本当の意味での行動――を断念し、状況をたちどころに魔術的・虚構的に変容しようとするようなときなのです。(中略)対象や世界との秩序あるかかわり方が非合理的なかかわり方にとって代られ、まるで主体の無条件な意志が対象のうちに自己を投影し、何の媒介も手段もなしに望む結果を手に入れうるとでも言わんばかりに事がはこばれるのです。この種の分析こそ、フッサールが形相的分析ということで考えていたものに当ります。(p39)

これは明らかにファシズムを想起させる記述。フッサールの分析は、人間のファシズム感応的な意識のあり方に光を当てている?
それは通常の「知的な」分析が取り逃がす部分。いわば、ヘーゲルがその「現象学」で、記述したが排除したもの?


現象学は、「本質的に記述的な学問」(p48)であること。
現象学(形相的直観・分析)は、経験に根ざす。(追記: つまり、ファシズムは経験的領域に関係している。知性だけでそれに対抗することは出来ない?)

本質直観にとって大事なことは、自分の方が、自分の出発点になったものよりも後のものだとわきまえることです。(p49)

このあたりは、イデア主義のように思われてきたフッサール哲学を、「経験の学」として捉えなおそうとする試みだと思う。

・・・原理的に言って、彼の本質認識はまったく経験的な性格のものでなければならないし、またそれは、およそいかなる種類のものであれ超感覚的能力を要するものであってはならず、したがってその本質なるものも結局は事実と同様偶然的なものでなければならない道理です。(p56)

そして今度は、実在の人間は本質直観の接点(=場)として現われてきます。つまり、私が本質を捉えうるのも、あるがままの私を意識することによってなのであり、ここでは可能的なものと実在的なものとが区別されえないことになるわけです。(p57)

「生きた私」に根ざす、本質直観(現象学)。


フッサールの捉える「言語」。
それは、超越的存在ではなく、日常の「話者」に根ざすもの。
日常語られる言葉の中にだけ、ロゴス(理性)は見出しうる、という思想。

それは、言いかえれば、自分が身を置いている一切の言語学的<状況>から脱した<超越論的主体>ではなく、或る言語学的状況を介することによってのみ、また自分の国語を行使することによってのみ真理を目指したり、暫定的な意味での普遍的思考作用に到達したりできる<話者>を再発見するということです。(p72)

まるで、私の意識が教えてくれないものを私の身体が教えてくれると言わんばかりなのです。(p74)

超越的・形而上学的なものでなく、日常の経験、身体行為(発話など)にこそ、ロゴス(「普遍性の萌芽」)を見出そうとする態度。このフッサール観は、伊藤仁斎に代表される江戸時代の反朱子学的な思想を思わせる。

ということは、私自身の身体と私の意識の結びつきがもっとはるかに本質に根ざしたものであり、言わば内的な結びつきだ、ということでもあります。(p74)


フッサールの捉える「歴史」。
フッサールは、歴史からの離脱を正当化したのではなく、ただ哲学の厳密さを尊重しただけである。(p82)
むしろ、「言語」についてと同様、フッサールはここでも、哲学が探求すべき「本質」というものを、(歴史の)具体的経験と不可分のものと考えるようになる。「本質」は、ドグマや直観によって把握されるものではなく、他者と共に生きられる経験の場に即してのみ、理解可能となるのだ。

とりわけ後期のフッサールにとって、哲学とは、他人と自己との「内的結びつき」に根ざした、「共存」の学だった。

哲学者であり哲学的に思考するということは、たとえば過去について言ってみれば、その過去とわれわれとのあいだにある内的結びつきから、過去を理解するということなのです。(p84)

哲学とは、われわれに先立って始められ、さまざまな仕方で承け継がれてきた文化形成作業を取り上げなおすことにほかならないのであり、かくてわれわれもまた、この現在の立場からその作業に「生気を与えなおし」、「ふたたび活力を与える」のだということになります。(p85)

それはまるで、ひとり想像力だけでは、とうていいろいろな文化によって実現されている実生活のさまざまな可能性を思い描くことはできないと言わんばかりの口調なのです。(p87)

或る型の独断論や直截的な合理主義は、非合理主義と妥協できるというだけでなく、それと深いところで密接に結びつくものです。(p94)

これは、ドグマや直截な合理主義(ネオリベなど)が、ファシズムと深く結びついていることの示唆として読める。
メルロは、これに対して、(個に先行する)他人との「内的結びつき」に根ざした「共存」的理解と対話の思想を構想し、そういうものとしてフッサール哲学を捉えようとしたのだ。


今回は以上です。
次回は、二つ目の有名な講演録「幼児の対人関係」についてのメモです(もうちょっと、ちゃんと書きます)。