マンハイムのファシズム分析・その1

イデオロギーとユートピア (中公クラシックス)

イデオロギーとユートピア (中公クラシックス)


この『イデオロギーユートピア』という本は、カール・マンハイムの著作の中でもっとも有名なものだろうが、いま大きな書店に行ってもすぐに手にすることの出来るマンハイムの本は、これだけではないかと思う。
指摘されるように、実践的な面で小さからぬ限界があるとはいえ、現代社会の分析においてこれだけ卓越した仕事をした人の本が、あまり読まれていないというのは、良くないことだと思う。是非、復権してほしいものだ。
なかでも、ファシズムについての彼の分析は、以下に書くように、驚倒するほどの鋭さと先見性に満ちていて、必読のものである。


この本でファシズムに関して語られているのは、ほんの一部分、この訳書のページ数でいえば、わずか十数ページ分にすぎない。そこに、驚くべきエッセンスが詰まっているのだ。
なお、ここで語られているのは、時代背景(出版は1920年代)から、おもにムッソリーニによるイタリアのファシズム運動についてである。
ドイツのファシズムに関しては、やや後年になって、『変革期における人間と社会』という分厚い本の中で言及されるのだが、それについては後日紹介しよう。


さて、その内容だが、大雑把に言えばこうである。
ファシズムというのは、資本主義や伝統的秩序がそれ以上立ち行かなくなって解体の危機に陥いり、同時に市民的理念や階級意識マルクス主義)のようなものも失効し始めたときに、そこで発生してくる「暴動主義集団」(暴徒化、暴力化した市民・いわゆる大衆)を利用することで、新興エリート層が既存エリート層から権力を奪取しようとする、体制内権力闘争の手法であるということ。
それを指導するエリート層の政治思想においては、歴史や理念というものはすべて否定され、マキャベリ的な大衆操作の技術(社会心理学)だけが有効な政治理論として活用される。

社会学的に見れば、これは暴動主義に立つ集団のイデオロギーの形態である。この集団を指導しているのは、自由主義的――市民的指導者層や社会的指導者層にたいして、アウトサイダーとしての地位にある知識人集団であり、かれらは、近代社会の転形期にたえまなく新しく生みだされてくる景気変動の波を、暴動のために利用しようとする。(中略)こういう時期こそ、間歇的に高まってくる暴動主義が蜂起するチャンスであり、社会経済面にどれだけ非合理的な残り滓が含まれているかに応じて、近代的意識のうちにひそむ爆発的な非合理的要素が誘発される。(p245〜246)

一方に強力な指導者とエリートたちの情熱的力、他方に盲目の大衆、というふうに、外部へ向かっての宣伝よりはむしろ自分の内的な自己正当化に仕えなければならないインテリ・イデオロギーの特徴を示しているこのイデオロギーは、結合度の高い社会的集団勢力の代表だと自認している指導者層にたいする対抗的イデオロギーである。(中略)偉大な指導者対大衆という対立図式を操作している集団とは、上昇を狙っているエリートたちだ(中略)現在指導的な地位を占めているエリートたちを駆使して、別のエリートがとってかわることが問題なのである。(p247〜248)


日本でもちょうど、リーマン・ショック頃の社会・雇用情勢の流動化から、明白なファシズム化への流れ(尖閣ビデオ流出事件など)が顕在化した節があるが、これはまさしく、(エリートたちの)権力闘争としてのファシズム型統治の定石にのっとったものと考えられるわけである。
ところで、このように大衆を行動へと動員しようとするファシズムの手法、その唱道者たちの(空虚な)思想性については、こう述べられる。

しかし、なんらかの仕方で人間にとらえられるこの歴史性は、ファシズム的な行為の非合理性の前では消失してしまう。(中略)ファシズムから見れば、どんな歴史観も、まったくのつくりものであり、歴史的時間を突破する行為のために撤去されなければならない虚構(フィクション)とみなされる。(p239)

ファシズムの純粋に直観主義的な手口にかかると、どんな政治や歴史についての知識も、およそ認識といわれるに値するものは、あとかたもなく溶け去ってしまう。(中略)思想は、ここでは純粋な行為への露払いとしてしか考えられていない。
支配者や指導者は、政治論や歴史論などはすべて神話にすぎないことは百も承知している。かれらはもともとそういったものから自由なのだ。しかし他方――そしてそれがこの考え方の別の一面なのであるが――それらの意義を評価することも忘れない。なぜなら、歴史論や政治論は、感情という人間のうちにある非合理的残り滓を動かして、政治的行動へと駆りたてる熱狂の派生物だからである。(p240〜241)


上述の『変革期における人間と社会』の中でもマンハイムは、ファシズムの思想としてのあり方を「行動主義」だと明言し、表面的な「行動」への動員のために、政治や歴史の諸々の「理念」を平然と道具として利用して恥じることのないファシストの本性を暴いている。
周囲を見渡せば、今の日本にはこうした連中が溢れていることは言うまでもあるまい。
だがマンハイムは、こうしたファシストの手法をたんに弾劾するのではない。むしろ彼は、ファシズム大衆社会化のもたらした、一つの必然的な帰結だということを認める。彼が苛立つのは、その事実の深刻さを認めようとしない人々に対してだろう。

近代社会が変転を重ねてゆくうちに、ときとして進化の道がふさがれ、〔すでに述べたように〕、市民層によってつくられた道具立て〔たとえば議会制度〕は、もう階級闘争の続行に役だたなくなる時期がくる。そこではさまざまな危機が表面化し、階級の構成は混乱し、戦闘的な階層の階級意識は昏迷に陥る。したがって、そういう時期には、階級意識はともすれば泡沫のようなものになり、個々人は自分の置かれている位置や階級的方向づけを見うしなう。そして、その後に大衆が成立する。
こういう時点に、独裁の可能性が芽ばえてくる。ファシズムの歴史像と、直接行動への道を開く直観主義の理論とは、こういう特殊な状況を誇張して社会生活の全体構造にまでまつりあげたものにほかならない。(p248)

さて、こういうふうに、歴史をある目的への過程、ある計画の過程と見る考え方を否定する市民層の傾向は、そのままファシズムのうちに安んじて受けいれられることになる。というのも、ファシズムそのものがじつは市民的集団の代表者だからである。したがってファシズムは、現存の世界のかわりに別の世界、別の社会秩序をつくろうとするのではない。現存の階級秩序の内部で、ある支配層を別の支配層ととりかえようとするのである。
 ファシズムの成功のチャンスは、その歴史像と同じく、上述したあの歴史的段階、つまり、その危機のなかで資本主義的、市民的秩序が解体に瀕し、改良を積み重ねてゆく方法は、もう社会的闘争の手段として役にたたなくなるような、あの歴史的段階から現われてくる。こういう段階では、少数の活動家を暴動に駆りたて、暴力的手段で権力を掌握するために間髪を入れずに必要な熱情を瞬時に投入することを知る者でなければ、一気に成功をおさめる見込みはない。(p253)


マンハイムの言いたいことは、現代の自由主義的な社会の展開においては、ファシズムの勃興は、少なくともある種の社会においては、避けがたいということである。
市民社会の論理が破たんしてしまう「あの歴史的段階」は、われわれの自由な社会にとって避けがたいものであり、それに対応する政治のあり方は、ファシズムを含めて、いずれもあまり芳しくない少数の選択肢のなかに限られてしまうことだろう。
後年、彼はそれに対するもっとも妥当な対処策として、「民主主義的」な「計画」(統制)社会の構築を提唱するに至ったのである。
つまり、ファシズムは確かに大衆社会化がもたらした事態を解決しようとする政治形態の一つだが、その限界はむしろ、大衆の情動への働きかけが「行動」への動員という表層的なレベルにしか届いていないことにある。真になされるべきなのは、大衆社会における人々の内面(情緒や衝動)を、教育や統制によって改変し管理して行くことである。
これが、マンハイムの「自由」と(おそらく)「平和」のためのプランだった。
その当否については、さまざまな議論があるだろう。
だが、大衆の情動の不可避的な噴出とその利用という、ファシストの「やり口」(麻生太郎)に対抗する有効な手立てとは、どんなものか。その問いに対する明確な答えを、われわれは打ち出せてはいない。
ファシズムの威力と正面から向き合わざるを得なかったマンハイムの問いかけの重さを、過去のものだとして投げ捨てる資格が、われわれにはいまだ無いと思えるのは、このためなのだ。