『ボタン穴から見た戦争』

ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言 (岩波現代文庫)

ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言 (岩波現代文庫)


スベトラーナ・アレクシェービッチの『ボタン穴から見た戦争』を読んだ。
当時はソビエト連邦に属していた、今のベラルーシの(かつての)子どもたちが語る、ナチス・ドイツによる侵略と占領、そして戦争の記憶。
ここで語られている体験、そして子どもたちによって記憶され、回想されて語り出される戦争の実像は、あまりにも壮絶で残酷であり、人に読むことを勧めるのが躊躇される。

こういうわけで、俺たちは自分の子供たちを理解できない時があるし、子供らは俺たちを分かってくれないのだ。我々は別々の人間なんだ。忘れて、生きていく、皆と同じに。だが、時折、夜中に眼覚めて、思いだせば、叫び声をあげたくなるんだ・・・。(p108)

こんなエピソードがある。首吊りにされた人々を初めて見た時、僕は家に走って帰った。
「おかあさん、みんなが宙に浮いているよ」初めて空をこわいと思い、それからは空に対する態度が変わってしまった。もっと警戒心を持つようになった。人々はとても空高く浮かんでいた憶えがあるが、恐怖のせいでそう感じただけかもしれない。でも、地上で殺されている人々を見たけれど、あんなに恐ろしいと思わなかった。(p109)


ただ、その一方で、戦争という突然の巨大な災厄に見舞われた人たちが、まったく見知らぬ同士であっても、当然のように助け合う姿に、感銘というよりも、何か理解を絶したものを感じた。これには、いわゆる「災害ユートピア」的な要素もあるのだろうが、同時に、当時のソ連という、特殊な社会の状況を知らなければ理解できない部分があるのではないか、とも思う。
作者のアレクシェービッチも、「ソ連人」という表現を特別な肯定的意味合いをこめて使っているし、また、この文庫版の解説では、沼野充義が「崩壊してしまった巨大なユートピア実験の場」という形容を「ソ連」に付している。
もっとも、このユートピア的な共同性が、果たしてマルクス主義に由来するものか、もっと古い宗教的な源をもつのか、それともそれらは実は同じものなのかといったことは、僕には分からない。
しかし、そこには、ドストエフスキーとか、トルストイとか、ああいう世界につながるものが想像されるということは、事実だ。
それに、これも考えるとやはりドストエフスキー的だが、この本では、人間だけでなく、動物たち、とりわけ家畜たちの死と苦しみに対する眼差しが、たいへん印象的だ。
これは、戦争という巨大な災厄によって、人間と家畜との距離が一気に縮まり、共感の範囲が(人間同士におけるばかりではなく)大きく拡張されたということではないだろうか?

だってこれは倒れて黙っている木とは違うんです。みなベエベエ、モーモー声を、苦しみの声を上げているんです。(p66)

トゥーラで、僕たちが連れてきた種畜用の雌牛たちが、どこにもやり場がないから、肉コンビナートに送られると分かった。街にはドイツ軍がせまっていた。僕は白いシャツを身につけて、ワーシカにお別れをしにいった。雄牛は重たい息を僕の顔に吐きかけた・・・(p173)