『明治維新史研究』

明治維新史研究 (岩波文庫)

明治維新史研究 (岩波文庫)




この『明治維新史研究』は、羽仁五郎が弾圧下にあった1932年から35年までの間に執筆・発表した五つの論考を、戦後井上清が編集して単行本として出版し、後に岩波文庫に加えられたものである。
羽仁はここで、明治維新という出来事を、ファッショ化の進行という1930年代の状況と重ね合わせて見つめていると思われる。
いま読むと、そのことがきわめてリアルに感じられるのは、当然だろう。
一口にいうと、羽仁にとって明治維新という現象は、反革命(革命の簒奪並びに抑圧)としてのファシズムの先駆形態なのである。
彼は、幕末から明治初頭にかけての日本社会の変容を、根本的には農民(当時の人民・大衆の大半は農民だった)たちの暴動・一揆を原動力として起きたものと捉える。発表当時、この見方(羽仁の「人民史観」)は、同じ講座派の中からも、農民を重視し過ぎ、ブルジョア革命(それが挫折したものだったとしても)としての明治維新の本質を見ないものだとして、批判や冷笑にさらされたと、井上清は書いている。
だが、ドイツやイタリアへの留学経験もあり、ファッショ化の中での弾圧と投獄も経験していた羽仁にとって、現実の「人民」の動向にこそ歴史の「意味」を見出すという姿勢は、それ自体がファシズム反革命)権力への抵抗であったのだと思う(この点については、最後にもう一度触れたい)。
次のような文章は、羽仁のそうした歴史観をよく示していよう。

いわゆるブルジョア革命の本質をブルジョアジイの政権獲得においてのみ理解する従来の見解には多大の不十分がある。(中略)大衆農民・プロレタリアトの広汎なる民主主義的解放への発展、そこにこそ社会の歴史的発展の客観的意義が存する。(p155)

明治維新政府は、農民たちを原動力とするこの「革命」を、「帝国」の論理のもとに簒奪し、同時に抑圧するものとして成立した。それを支えたのは、米英の帝国主義的資本主義と、民衆への奴隷的な支配を本性とする封建制の体質を残存させた国内の支配権力との、共犯関係に他ならなかった。
概ねこれが、羽仁の明治維新観ということになろう。


第一章の「東洋における資本主義の形成」は、有名な論考であるらしく、敗戦後まもなく、単行本として出版されたらしい。
たしかに、今読んでもたいへんスリリングな内容だが、敗戦直後(GHQ占領下)には、また別なリアリティをもって読まれたのだろうと思う。
ここで羽仁が書いているのは、ひとつにはアジア的生産様式(アジア的構造)ということであり、それが何か特殊的・非歴史的な実体ではなく、マルクス主義でいう生産力と階級関係の発展の過程の、地域的特性による一つのヴァージョンにすぎないということである。
これはもちろん、アジアにおける資本主義・帝国主義の進行の問題、なかんずく明治維新をどう捉えるかということに関係しているのだ。

いかに外見的に平和に見えようと「特殊」に見えようと、それら村落共同体その他の全アジア的構造は、現実には、過去においては、根本的に古代的乃至封建的の搾取機構の早熟、停滞、循環、維持よりほかのものではなかったし、近代乃至現在においては、すでに反動化しあらゆる進歩性を弾圧して自己の階級的存在の命脈を一日でも延ばすためにいかなる手段をも辞せぬ資本主義帝国主義の階級的搾取機構の結局破綻のほかなき単に一時的現象的の強化のために利用されて、矛盾の最期的激化のために残存せしめられておるもの、かかるものよりほかのものではない。(p50)

アジア的構造を、階級関係の発展過程における旧構造の「残存」として捉える見方は、明治維新を「挫折したブルジョア革命」と定義する講座派の歴史観に合致するものだろうが、羽仁はその「残存」が近現代においては、帝国主義の論理によって要請されたものだということを強調するのである。
戦後に出たこの『明治維新史研究』の単行本の序文には、こう明快に書かれているそうだ。

かくて、現代におけるアジア的生産様式の問題は、帝国主義の問題である。アジア的生産様式が現代に残存しているとすれば、それは、それ自身の理由によって残存しているのではなく、帝国主義によって残存せしめられているのである。

ここで問題になっているのは、もちろん明治体制における、天皇制(それは「復古」と呼ばれたのだが)や封建的遺制のことだろう。
周知のように、同じ事は敗戦後にも起きたわけだが。


ともかく、この章ではインドと中国における「アジア的生産様式」のそれぞれ特異なあり方が分析され、それらの社会が資本主義化・植民地化されていく過程が叙述された後、その世界史的なつながりの中で、日本の事情が検討される。
そこで羽仁は、古代史にまで遡って、日本の社会の変わらずに「残存」し続けてきた性質のようなものを描き出している。それは一言でいえば、「国家の奴隷」という人民統治のあり方だ。

末期氏族制的共同体土地所有は土地所有の国家的規模への集中を可能ならしめ、民衆は私的大土地所有者の農奴たる代りに国家の農奴たることを強いられ、国家官僚乃至君主みずから各私的土地所有乃至私的商人高利貸でありつつ、同時に土地所有乃至商業的搾取の国家的規模における集中の代表者たり、(中略)そこでより一層直接的に酷烈に民衆に対し搾取ならびに権力行使をなしたことが知られる。(p132)

この「国家の奴隷」という民衆支配のあり様は、後の章で詳しく描かれる通り、明治維新に先立つ幕藩体制の特徴でもあったが、羽仁がそこで含意しているのは、明治政府による貧農に対する収奪の悪辣さであったろうことも、また確かである。
そして、先に述べた、明治維新につながる農民たちの暴動は、このような奴隷状態からの脱却を目指す行為に他ならなかったことを、羽仁は強調するのだ。


そして、この章の最後では、後の章でも何度も引用されることになる、英国全権公使オールコックや米国の鉱山技師バムベリイらの文章が引かれて、明治維新が列強の帝国主義と資本主義によって要請されたものでもあったことが強調される。
それは、とくにインドや中国の植民地化による混乱が、列強(特に英米)にとっては資本主義拡大の観点に立つならば失敗であり、必要なのは、日本に安定した立憲君主制国家を作ることにより、自国の製品の良き市場を確立すると共に、インドや中国で起きたような民衆の暴動の動きを抑え込む役目を、その政権に負わせるという、国際的な意図である。
その一つのモデルケースとなったのは、明治維新に先立つ1840年の米国によるハワイの立憲君主制確立の「成功」だという。

すでにハワイにおいてかかる産業資本主義的開拓が試図されたこと、そこで立憲君主制への転化が援助せられまでしたこと、それらはすでに前に述べた。さきに分析せられた資本主義の国内的ならびに世界的の発展および矛盾の成長の発展段階下に、日本の開港および明治維新がいかなる意味において必然とされてきたか、をわれわれはもはや見誤り得ないであろう。(p148)

その際、もっとも肝要なことは、日本における「新しい原則への変革」は、「上層から下層への浸透の過程」としてなされるべきであって、(中国などにおけるように)「外から乃至は下からの強き圧力によって行わるべきではない」(p251)と、オールコックが明言していたことだろう。
いわば「上からの立憲体制」、「人民を抑え込むための近代的政治体制」こそ、帝国主義列強(特に米英)が日本に望んだものだった、ということである。

かつてアジア的形態下に停滞的に存続し支配して民衆を久しきにわたり直接圧迫していた封建的生産関係は、いまや(中略)帝国主義下に民衆を抑圧すべく存続せしめられている。(p149)

こうした「上からの立憲」体制確立の背後にある国際政治的思惑の分析は、GHQによる占領政策の変遷を体感していた敗戦直後の日本の読者には、ある程度理解しやすかったかもしれない。
だが、羽仁がこれを書いたのは、繰り返すが1930年代前半なのだ。当時はまだ、日米関係は決定的に悪化していなかったとはいえ(つまり、米日間の共犯構造を見抜くことが、その数年後ほどは困難ではなかっただろうとはいえ)、自国の政治の変容の背後に、国際的な政治・経済の力学と展開を常に重ねて見ようとする視野の広さと鋭さには、驚くしかない。


以下、手短に後続の章を見ていこう。
第二章「幕末における政治的支配形態」では、明治維新に先立つ徳川幕藩体制が、とりわけその末期において、いかに人民を収奪し抑圧するものであったかが、強い怒りをもって描かれる。それはもちろん、その非人間的な支配の「昭和」における「残存」に対する、筆者自身の怒りのあらわれでもあったろう。

そして、かかる完全なる政治的奴隷制の永続のために、さらにあらゆる制限政策が強要された。そしてそれらはかの封建権力維持のための農奴的小規模生産様式持続を主要目的とした対外政策、世界市場からの強行的隔離、鎖国主義排外主義にいたった。かくて、民衆をば考え得るもっとも狭い生活世界に拘束し、人間をば盲目的機械、伝統的慣習の奴隷、迷信の奴隷とするにいたって、民衆からあらゆる偉大さあらゆる解放のエネルギイを奪い取り、そのさなきだに狭隘な停滞的な社会経済的基礎における農奴的被支配の状態をいっそう循環停滞的なものとするために、この封建的政治支配の全支配機構は機能させられたのであった。(p174)

第三章「幕末における政治的動向」では、この非人間的な支配から脱却しようとする人民の闘争を簒奪し、抑圧する、「維新」を唱える権力層(下級武士など)の欺瞞性が暴かれている。

(前略)思想が人民的基礎の上に一方では国民的平等を他方では対外的平等を確固たる自由・平等・友愛の解放の目標とするものとして成長せしめられる前に、それはいわゆる閉鎖乃至尊王攘夷の政治的集中へ追い立てられて行ったのである。(p235)

そこで、幕末における国民的思想の急激な政治的集中は、もっぱら封建的支配者の上部に対する下部の「内部改革」論と基礎的に現実的進歩的な努力を伴わぬ「国防」論「攘夷」論との二方向に、いずれも人民の国民的統一解放運動とはある間隔を置き、いな実にそれを抑圧するためのものとして、発展させられた。(p237)

吉田松陰をはじめ、幕府によって獄につながれたり刑死した侍たちの苦難ばかりが英雄的に語られるが、一揆その他のために農民たちが閉じ込められた牢屋の悲惨さは、それら侍たちの牢内での待遇とは比べ物にならないほどに酷いものだったではないか、それなのに彼らが歴史の主役として見られることは決してないと、羽仁は憤る。


さらに、第四章「幕末における政治闘争」のなかで特に着目するべきなのは、終りに近い次の一節だろう。

その他方で、維新政府は、国内の土台の動揺のゆえに、民主的エネルギイを麻痺せしめ注意を自己から外に向け革命の烈々たる溶岩に対して、排水溝を掘り国内圧の手段を鍛うべく、日本農民都市民大衆が国内の自由のために彼等の政府と闘いつつあるその同じ時期に、彼等をしてその同じ政府の指揮の下に極東の自由に対する十字軍を企てしむべく、この「深き配合」のために準備を怠らなかった。わが農民小市民大衆が己の解放を志すときに当り、その全対外政策もまた変化しなければならぬ。でなければ、わが国民はわが国民自身の若きほとんどかろうじて予感されたにすぎぬ自由を拘束することになる。だが、日本はそれが植民地民族を自由ならしむると同じ度合においてそれ自身を自由ならしむる、ということを、民衆自身が的確に学ぶ日はなお後にあった。(p296)

人民の怒りや憤懣を抑え込み、利用するための、もっとも効果的な手段としての侵略行為と戦争。それは、自国の人民を使った他国の人民への抑圧という、国際的な力学に合致するものでもある。
米英が日本に望んだ役割も、そうした要素が大きかったことは、明治以降の歴史が十二分に証明しているであろう。
日本帝国主義は、いつでも帝国主義・資本主義総体の尖兵でもあったのだ。


最後の第五章「明治維新」は、羽仁が出獄後の1935年(彼は敗戦の数か月前に、もう一度逮捕されるのだが)に書いたもので、上記四つの論考の内容をまとめて、より一般向けに書き表したような文章になっている。
僕は、そのあまりに文献資料からの引用が多い文体に読みにくさを感じざるを得なかったが、井上清によれば、そこには特高警察の監視のために自分の言葉で思想を述べることが許されず、引用文のコラージュによって間接的に表現するしかないという事情がうかがえるとのことである。
統制と弾圧のさなかで発表を続けるというのは、そうしたものだということだろう。
さて、そのなかで羽仁は以下のように書き、明治政府(大日本帝国)のような人民に対して抑圧的な近代国家のあり方(「上からの立憲」)というものは、英米など世界の資本主義と帝国主義の要請に合致するものでもあったという、本書の重要な論点を、あらためて簡潔に説明している。

資本制列強は自国において封建制と戦いこれを清掃乃至屈服せるもの、植民地乃至後進諸国に対する彼等のはたらきかけにおいても、それら各地の封建制抑圧停滞は生産の拡大と消費の増加との最大の障碍なるがゆえに、そしてその上に何処でも鎖国制が立つから、これを打破することは彼等の任務であった。(中略)けれども欧米資本制列強は、とくにイギリスのインド植民地化後の一八五七年インド兵乱、中国半植民地化の間の太平天国の経験において、それらの後進国における既存封建政権の清掃乃至打破がかえってそれらに人民の国民的解放運動の擡頭を導き、これによって外からの資本制列強の支配が著しく困難にされた経験をなすに及び、とくに日本の開港を期待するに当ってはきわめて慎重な方針によらざるを得なかった。(p418〜419)

このように、明治維新体制は、日本の権力者たち(薩長の下級武士や資本家、それに同調していく反動化したブルジョア層)と、英米など海外の資本・帝国主義勢力との合作によって生まれたものだと、羽仁は論じている。
だが、そのことは、人民の闘争をその原動力とするところの、幕末から明治初頭にかけての革命的な動きの全体を否定するものではない。革命は、権力層によって簒奪されてしまったのだが、そのことは人民の闘争が無駄であったり、逆の効果をもたらすにすぎないものであることを意味するのではない。
明治維新は、その本質である人民の闘争という要素に関しては、不朽の意味を歴史のなかに有している。
いや、歴史が意味をもちうるのは、それが人民の歴史である限りにおいてであるということ。
それが、羽仁の歴史観の核心である。

(前略)旧幕府の立場から人民を誘わんとしても、そして他方維新政府は前にも述べたように人民になお言論洞開苛政更革を約するのみでいまだその具体的な可能の実現の方法を示さなかったが、それでも人民は判断を誤って旧幕府の立場を支持するがごときことついになかったのがまた当時の事実であった。(p436)

これを要するに、明治維新において国民はもはやかの久しかりし旧幕封建弾圧制の持続をゆるさず、主要諸点においてこれが除去に努力し、当時の困難複雑なる条件の下においてこの除去を一定の程度まで遂行し、少くとももはやその維
持乃至復活を決定的に不可能にしたのである。(p442)

結果として出来上がったもの(明治体制)が、どれほど反動的であり醜悪なものだったとしても、それを生ぜしめた人民の闘争と願いが、そのことによって否定されるわけではない。
その闘争と願いは、国内の専制的あるいはファシズム体制と、帝国主義的な世界資本主義の論理の双方を撃つものであり、そしてそれ以前に、そのなかにすっかり組み込まれつつある僕たち自身を撃っている。
羽仁の提示した「人民」像は、それを抑圧し抹殺する側に再び立たないために、僕たち自身が自らの生をもってそれを実現(現実化)することを要求されているような像なのである。