家永三郎『太平洋戦争』

太平洋戦争 (岩波現代文庫―学術)

太平洋戦争 (岩波現代文庫―学術)


満州事変から対米英戦争にいたる、日本の15年間の戦争の過程を、国内の情勢と、外地や戦場の状況を叙述しながら振り返り、なぜあの戦争が止められなかったか、またそれがいかに破壊的な結果をもたらすものであったか、そしてその経験が戦後にどのように継承されたか(あるいはされなかったか)を、時代の体験者であり歴史学者である著者自身の倫理的関心に基づいて考察した本である。


吉田裕による文庫版の「解説」には、本書の特徴がきわめて適切にまとめられているのだが、その一つに、『諸領域を総合した、体系的な通史という叙述のスタイルをとることを最初から意識的に放棄していること』が挙げられている。
このような姿勢は、初版の序や第一編の冒頭で繰り返し表明されており、その理由は、著者がそれらの領域の専門的能力を欠くためであると説明されているのを読んで、僕はなんという謙虚な姿勢だろうかと感心したのだが、吉田によれば、そうした著者の手法の背後には、構造分析的な歴史記述、なかんずく当時流行していた社会経済史的な戦争分析が、戦争を不可避的な過程として捉えてしまうこと(「仕方なかった」という議論)につながり、歴史に関わった自他の責任を不問にしてしまうような、『痛みを欠く歴史学』(家永自身の言葉)となることへの批判と警戒が込められているのだという。
このことは、僕にはうまく関連付けることが出来ないのだが、吉田が「解説」の中で指摘している本書の別の特徴、つまり従来の実証史学の立場においては史料的な価値が低いものと見なされてきた、一般の民衆や元兵士たちの手記や回想を史料として多く利用して叙述を行い、論証するというスタイルの選択にもつながっているのだろう。
こうしたスタイルは、先日紹介を書いた『戦争責任』にも共通する、家永の著作の特色であり、そこに吉田が強調するような家永の近現代史研究の、倫理的ないしは実存的とも呼べるユニークな魅力が表れていることも確かだろう。
一面、そのことは同時に、反省し、問いを発する主体である叙述者(家永)自身の存在が、あまりに前景化するということをも意味していると思われ、「他者の声」であるはずの史料の公正な扱いという点では疑問が生じることにもなろう。
だがもっとも大事なことは、そうした難点を勘案してもなお、家永の自省を含んだ責任追及の問いの価値が不朽のものだと認めざるを得ないほどに、責任の曖昧化を志向するこの国の権力と社会の構造が、今日なおあまりにも強力であるという事実であり、本書の論究の核心は、まさしくその事実にこそ関わっていると思われるのである。


いわゆる十五年戦争の進行(勃発とその泥沼化)を食い止められなかった理由として、日本社会全体においても軍隊内部の問題としても、著者が最も重視していることは、人権蹂躙や民主主義の不在ということである。
明治以来、帝国憲法下の戦前の日本では、民衆の自由や人権が十分に認められたことは一度もなかったことが強調され、それが戦争の遂行を止められず、のみならず国民が進んで戦争に協力していったことの根本的な原因であるとされる。
このことはとくに、官憲による弾圧や統制と教育の画一化という、二つの大きな要素に代表される、とする。このうち前者については、治安維持法下の弾圧の実態についての、次のくだりが印象的だ。

しかも、共産主義弾圧を中核とする思想・表現の自由の抑圧は、単に出版・言論・集会・結社の自由を奪うにとどまらず、警察官・検事等の権力執行機関が、反体制的思想の持主、反体制運動参加者に対し、違警罪即決例・行政執行法を濫用して違法に検束・拘禁したり、警察署内で暴行を加えたり、長期にわたる未決拘留をつづけるなど、法令に反した職権濫用の犯罪に該当する方法までを用いて、直接人身の自由を侵害することにより、国民を威嚇し委縮させる効果をあげたのであった。(p41〜42)

「長期にわたる未決拘留」など、まさにいま起きていることだと言いたくなる。このような強権的手法と、それを特に不当とも思わない国民の意識のあり方というのは、決して過去の問題でないことが、よく分かるだろう。
一方、教育に関しても、現在の状況は急速に、戦前あるいは戦時中のそれに回帰しつつあることを認めざるをえない。

自発的に軍国主義を支持する心情(それはただちに反戦思想を罪悪視する心情ともなる)を国民の意識に植えつけ、国民の大多数の思想を軍国主義の方向に画一化する積極的作用を演じたのは、実に公教育の力であったといわなければならない。(p42)

要するに、戦前にあっては、治安立法による表現の自由の厳しい規制と公教育の画一化とがあいまって国民の意識の自由な成長と活動とを妨害することにより、無謀な戦争に対する国民の下からの抵抗の素地を事前に摘みとっていたのであって、そこに戦争を阻止しえなかった決定的な条件が横たわっていたことを重視しなければならぬ。(p55)

序論のなかで、冷戦下に日米両国政府の合意(1953年)のもとに行われた軍国主義意識を培養する公教育のあり方への方針転換と統制とによって、1960年代には早くも生徒・児童のなかに戦争を肯定的に評価する意見が目立ちはじめ、80年代にいたると先の戦争についての根本的知識の欠如とともに「大東亜戦争復権の動きが大きく台頭してくるという変化が述べられているのだが、著者に「戦前の再来」を危惧させたその公教育の効果は、残念ながらいまでは完全に実を結んでいるといわざるをえないだろう。いま起きているグロテスクな「再来」の姿は、むしろこの戦後一貫して行われてきた静かな「軍国主義教育」の成果であり、総仕上げとさえ考えられるのだ。


戦前に話を戻すと、このような統制は、戦争の進展に伴ってその異常性を甚だしくしていくのだが、その概要はすでに1934年に陸相荒木貞夫が首相に出した意見書の中に示されていたという。

要約すると、「国策」(戦争推進勢力の支持する政治的目標)に否定的な言論・出版・集会・結社をことごとく抹消し、御用団体を最大限に活用させて、戦争政策に国民を動員させようというのであって、荒木の個人的意見にとどまるものとはいえ、その後の思想統制はほとんどこのとおりの方針にそって推進されたのである。(p157〜158)

こうした統制は、対米英戦が始まるころになると、治安維持法改悪などの治安立法の強化により、予防拘禁や刑事裁判手続き簡略化など、司法を含む絶大な弾圧体制となって現実化するわけだが、今日そうした事態は、とりわけ原発問題に関しては、やはりすでに到来しているというべきだろう。3・11以後は、「原発」という「国体」の護持に関しては、総動員体制が敷かれているようなものである。
その同じ体制が、今後は「原発」のみならず「戦争」に関しても支配するようになることは、ほとんど避けがたいとも思える。


他方、この人権や民主主義を極度に制限し、やがて(「国体護持」の名の下に)全面的に否定するにいたる日本の国家・社会の体質は、軍隊の構造にも当然反映し、またそれが戦争遂行過程の残虐性や悲劇の原因ともなったとするのが、著者の見方である。

これを要するに、人権感覚の欠如が戦争の原因となり、戦争の激化が人権蹂躙をいっそう激化させつつ、大破綻への転落の道がつづいたのであって、ここに太平洋戦争の国内史的観点からの最大の問題があるというべきである。(p177)

ここでとりわけ印象的なのは、日本軍においては、捕虜になることの禁止や、特攻戦術に関して、兵士個々が生き残ること、生き延びることを阻む、強力な社会的圧迫が働いていた、という指摘である。たとえばノモンハン事件の時には、退却生還した指揮官や、捕虜となった後に生還した者に対して、自殺を強要したり、はなはだしくは医者に変装した憲兵が自殺を拒んだ元捕虜を注射によって殺すという出来事まであったらしい。
戦時中、捕虜になる日本兵がきわめて少なかったのは、たんなる規範の問題ではなく、こうした、死を強いる社会的強制の結果だということである。

後に述べるガダルカナルニューギニア、フィリピン等の壊滅的敗戦を喫した戦場で、戦死者よりもはるかに多数の兵士が餓死・病死したのは、力尽きた後も捕虜となって生命を全うすることを絶対に許さない日本軍の心理的重圧から生じた惨劇ということができるのである。(p77)

このような、民主主義の不在と人権の否定が戦争の惨禍を招いたという著者の観点は、米英軍の合理的な戦い方との対比や、八路軍の民主的な体質との対照によって、印象深く立論されているのだが、やはり疑問もある。
言うまでもなく、その論理では、著者自身が先の戦争のもっとも大きな惨禍として強調する、ホロコーストや原爆や731部隊といった、いわば近代主義がもたらしたシステマティックな災厄の原因を、十分に捉えることが出来ないと思われるからである。


また同時に、著者は、この戦争が、国内法の観点から見ても「違法な戦争」であったことを繰り返し強調している。

いずれにせよ、満州事変が犯罪行為を起点として開始され、日本の国家機関が次々に積極的または消極的にその犯罪に加担しつづけていくことによって一五年にわたる戦争が継続されたのであり、この点だけからいっても、太平洋戦争全体が、国内法の観点からみても違法な戦争であったことは明白といわなければならないのである。(p97)

これは先日紹介した『戦争責任』にも示されていた、国民国家の「条理」を重視する、著者らしい視点だといえよう。
そこで家永は、東京裁判のようないわば国民国家の外部の論理(国際法、人類普遍の法のようなもの)による責任追及を、結論的には是とするのだが、その論のウェイトは、あくまで国民国家の「条理」の(不十分ではあっても)堅持と発展ということに置かれているため、国内法に照らしても明らかに違法性が問える戦犯たちの場合とは違って、帝国憲法の枠内では責任を問うことが難しいと考えられる天皇の責任を、あえて法的に裁くことには積極性を欠く態度を示すことになっていた。
そうした、国内法を重視し、国民国家の展開という論点に重きを置く家永の歴史観が、戦争の解釈にも色濃く表れているわけだ。
本書においては、たしかに日本の伝統的なアジアに対する蔑視という問題の根深さや重大さ、またアジアの犠牲者たちの存在ということが、繰り返し論じられていて、重要な特徴をなしていることは確かである。だがそのことは、家永の倫理的・実存的な歴史との対し方が、明治の民権運動を始原とする一国民国家の連続性という観点をベースにしたものであるという事実を排除するものではない。
家永の倫理的な歴史観の主体性は、国民国家の連続性の意識に深く根を下ろしたものなのである。
これはさらに、戦前・戦中の「抵抗」についての家永の両義的な態度とも関わってくる事柄である。
彼は一方では、日本における民衆の反権力的な「抵抗」の不在を、ドイツ、イタリア、スペインの民衆による、またフランスや東欧諸国などの被占領国の民衆のパルチザン的反ファシズム闘争に比して、その著しい特徴として指摘し、断罪する。

これらの例と対比するとき、ひとり日本国民のみが、戦争勢力を自らの手で打倒しその主体性において平和を回復することができず、支配層から先手をうたれはじめて「終戦」を天下り式に与えられるという受動的態度に終始したことは、いちじるしい特色を示している。過去の日本の歴史の中で土一揆百姓一揆等の形でつづいてきた人民蜂起の永い伝統は、一八八四(明治一七)年の自由民権運動の崩壊期に秩父事件・飯田事件等の武装蜂起の試みが挫折して以来、失われたままとなっていた。戦争終結に当っての人民の主体性の欠如が、戦後の日本の民主化のあり方を規定する重要な条件の一つとなった点に留意しなければならないであろう。(p373〜374)

だがその一方で、戦時下において、具体的な抵抗の形にはならなくても、戦争遂行への民衆の怨嗟がひそかに吐露されており、そのなかに戦後の日本国憲法の理念につながるような思いや感情が含まれていたと考えられることを強調するのだが、それは家永が、自由民権運動から日本国憲法へという国民的な思想の流れの実在を論証しようとしているためなのだ。

しかも、日本国憲法の基本的な構想は、第二編第一三章に紹介したとおり、一部の日本人がひそかに期待していた願望と一致しているばかりでなく、さかのぼればかつて明治一〇年代に自由民権論者が実現しようと努力しつつ実現できなかった国民的願望でもあったのだ。(中略)実質的にも日本人の願望を多分に包含しており、決して占領軍の単純な「おしつけ」によるものと断定できぬ性質をもつのを看過してはならぬ。(p429)

さすがにここまでくると、この家永の歴史観は、国民国家における民衆の歴史というものを重視するあまり、その美化に陥っていると思わざるをえない。こうした過度な国民主義の情調は、戦争末期の特に上級軍人たちの道義的な堕落を非難する家永の語調にも、如実に感じられるものである。
だが、その限界はそうであるとしても、僕たちはこのような歴史観の根底にある積極的なものを見落とすべきではないと思う。
それは、先に述べた、国家権力による民主主義や人権の抑圧に対する民衆の闘争を肯定しようとする歴史への態度、言い換えれば、国権に対するものとしての(その限りでの)民権に加担する精神、ということである。


著者は、日本社会全体のあり方としても、またそこに由来する軍隊の体質や戦争の進められ方についても、その非民主性や反人権性ということを強調する。日本社会の体質と、この戦争の性格とは、民主主義の否定、帝国憲法下における民権の抑圧という点において、著者のなかでつながっているのである。
そしてここが特に重要なのだが、こうした捉え方は、この十五年戦争の全体を「反共戦争」として捉える著者の戦争観と、深く結びついている。
著者は、元々日本の満州建国の意図も、ソ連への対抗、攻撃という目的と深く結びついているし、中国への侵略戦争もその線上にあるものとして理解する。

いずれにしても、日本の戦争勢力は、戦術上の必要から、ときに中国との戦争に没頭し、または米英との死闘に他を顧みる余裕を失なったりして、現実にソ連との国交を維持する政策をとらなければならなかったとはいうものの、中国侵略をふくめ、戦争目標の根底に武力による共産主義破壊の理念が終始一貫して顕在または潜在していた事実は、もっとも注目に値するところであろう。(中略)それは国内政策においても暴力的に共産主義弾圧を強行しつづけてきたことと精密に対応するものであって、いわば十五年戦争治安維持法の国際版であったと言えるのではあるまいか。(p127)

日本国内の非民主主義的・国権主義的な状況と、十五年戦争の反共戦争としての根本性格とは、このように結びつけられる。
そして、この反共という意図においては、日本の指導層と、米英の支配層(の一部)とは、実は元来連携する関係にあったことが指摘される。
いわゆるABCD包囲網が日本を追いつめ開戦のきっかけとなったという説に関して、著者はこう指摘する。

しかし、このことは、裏返して言えば、ABCD包囲陣による経済封鎖が行なわれた一九四一年夏以前は、米・英・蘭三国とも、日本の中国侵略戦争遂行に不可欠の石油・鉄等の戦略物資の供給を続けていた事実を明白に示すものにほかならないではないか。(p120〜121)

つまり、中国の共産化の阻止、別の言い方をすれば民衆の力による中国の独立の確立を阻止するという目標は、米英蘭三国と日本の指導層との間で、元々は共有されていた、ということである。
日本の敗戦と冷戦の開始は、この反共同盟の一時的な亀裂(逸脱)を旧に復さしめる結果となった。
ここから、『十五年戦争治安維持法の国際版』という認識にとどまらず、「日米軍事同盟」を、『いわば治安維持法の戦後版』であり、とりわけ軍国主義再来の機運が生じてきた1980年代にはそれがかつての日独伊三国同盟に近似する性格を帯びてきたとする、著者の見方が生じてくる。


こうした、反共戦争としての十五年戦争という見方を、はじめに読んだときには、正直、著者はあまりに冷戦期の思考の枠組みに拘束されてしまっているのではないか、と思ったものである。
だが、あらためて考えてみると、そう思った僕の考えのうちには、「反共」という言葉を冷戦という当時の思想状況に過度に結びつけて理解する、先入観があったのではないか。
著者のいう「反共戦争」とは、国内外の支配層と民衆との間の、国際的な闘争のようなものを指しているのだろう。つまりこれは、反ファシズム戦争を含むが、そこに限定されない、民衆の闘争、というような概念なのだと思う。
著者が本書で、「民権」という日本ローカルな(国民主義的な)政治用語を用いて語ろうとしたものも、ほんとうはそうした闘争の価値であったはずだ。
著者の歴史観、戦争観は、その意味で、冷戦期を貫いて、われわれの現在に語りかけてくる力を有していると思う。
「反共(戦争)」という言葉を、冷戦期的な意味合いにおいてしか捉えられない拘束に捉えられていたのは、じつは僕の方だったのである。