『明治維新の遺産』

明治維新の遺産 (講談社学術文庫)

明治維新の遺産 (講談社学術文庫)




1974年に(原著が)書かれたこの本において、著者のテツオ・ナジタは、近代以後の日本が、江戸時代から受け継いだ強力な官僚機構の伝統を有した社会であることを重視した上で、そこにはA極度にドライで実用主義的な官僚支配のあり方と、Bそれを批判し打破しようとする「非政治的」で倫理的な理想主義の傾向とが存在し、そのABの両方がセットになって日本の近代社会の基本的な構造のようなものを作っているのだ、という考えを述べている。
これはたとえば、2・26事件における統制派と皇道派の対立と協働のようなものを思い浮かべれば分かりやすいであろうが、ナジタは、Bの方の流れのなかに、植木枝盛中江兆民にはじまるリベラル的・左派的な思想をも含めて捉えているようである。
戦後民主主義について、彼は書く。

(日本においては)戦前期の一九二〇年代と同様に、民主主義は立憲政治に力を付与するイデオロギーではなく、政治批判の思想であり、多くの場合非政治的な思想である。(P37)

ナジタは、こうした極端な理想主義の傾向は、日本に固有のものと考えるべきでなく、普遍的に見られる政治的・宗教的な「原典主義者」に近い何かだ、という風にも書いている。
これには異論もあろうが、逆に、そこには立憲主義にとっての、外部ないしは余剰のようなものが含まれていると考えることもできよう。


それはともかく、上記Bの、官僚機構を打破して精神主義的な純粋さを回復しよう、それによって真っ新な状態を作り出して、新たな何かを始めていこうという傾向性のようなものを、この本では「維新主義」という言葉によって表現している。
このような傾向性は、日本の社会構造の根底に含まれているもので、それが、明治維新、大正維新、昭和維新というふうに回帰して来るのだ、という見方である。

我われはこの類型を、原初的な観念や絶対的な原理へ「回帰」(revolveという動詞からくるrevolutionのように)して、そこから循環運動をして現状にたち戻り、原初的観念にしたがって現状を概念的に再構成し、それによって何か新しいものを生み出そうとするものと考えることができる。(p10)

全てを真っ新に(無かったことに)して、白紙の状態から始めたいというのは、折口信夫も、昭和天皇即位の頃に、天皇の言葉の機能の本質をなすものとして語ったところの、大衆の強い情動に関わるものだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20130114/p1

「レジームの解体」だの「維新」だのを標榜する現代のポピュリスト政治家たちは、相変わらず、この情動に巧みに訴えかけているのだとも思われる。


さて、すでに述べたように、このBは、一見それと対立的なAとの協働関係によって成立しているものだとされる。
それについて、著者は江戸思想史にさかのぼって源流を探る。すると、この協働関係の芽は、少なくとも江戸時代後半には存在していたことが分かる。それを可能にしたものは、やはり「天皇」という光源であるようだ。

十九世紀中葉の志士たちが、制度や既存の法令を、規範に対立する操作可能な「物」であると見なすことが可能になったのは、天皇制を形而上的規範の最高の歴史的根拠と見るこの見解によってであった。(p68)

つまり、理想的絶対としての「天皇」の発見こそが、Bの理想主義だけでなく、Aの実用主義の形成をももたらしたのである。
処刑された反体制知識人、山県大弐がもたらした影響について、著者は書く。

イデオロギー的にいっそう重要なのは次の点である。すなわち、天皇象徴が倫理的意味での規範的実体として着実に承認されていくのに反比例して、現存の官僚制度を機能的な絶対、それゆえに「相対的」なものと見なす傾向が発達してきたのである。いいかえれば、諸制度は実践のための実用的な枠組であり、権力のヒエラルヒーに過ぎないと考え、時間をこえた先験的な真実を構造化したものとは見なされなくなってきたのである。この傾向は、山県大弐の政治的現状の根本的な否定という立場ほどには、秩序破壊的ではない。便宜上必要な制度内での官僚的「実践」の必要は承認するのである。この立場は、官僚的実践の実際的な意味と意図された効果の方を、規範的本質への献身よりも重要視するのである。徳川後期から近代にかけて、「名よりも実」という格言がたえず繰り返されたゆえんである。(p79〜80)

ここに、極端なプラグマティズム、ほとんどマキャベリズムにも近いような、だがより狭小な視野しかもたない特殊な官僚主義の根のようなものが生じている。
AとBとの特殊な共存、協働関係の、最初のはっきりした現われを、著者は水戸学派の勤王思想のなかに見出す。

この二元論には、第一に、完全に規範的な理想としての君主、純粋であるがゆえに静態的な、そして窮極的な忠誠の対象としての君主という概念がまず存在している。この君主概念と対をなすのが、精力的な活動、縦横の策略、実際の功績、の世界である。この世界のなかでは水戸の勤王派に多大な貢献の余地が許されていた。(p87)

純粋で無為という天皇(理想)の性格によって担保された、権謀術数の冷酷な実用主義
理想主義的行動と功利主義官僚主義との奇妙な共存。
著者はこの二つを、おのおの維新主義の半身をなすものだと書く(p118)のだが、それは、まさしくそうした幕末の志士の代表格だった伊藤博文が生み出し、死守しようとした明治憲法体制の奥深い部分を形作っているものでもあるのだ。
明治憲法序文に記された「国体」概念について、著者は書く。

したがって現実の日常的、理論的活動の分野では天皇は「無為」にとどまり、かわって社会の全分野における忠義の臣民の「実践」が最大限に生かされるのである。(p139)

これが近代日本の秘密だと、言い切りたい気持ちにかられる。


本書の後半では、このA極度にドライで実用主義的な官僚支配のあり方と、Bそれを批判し打破しようとする「非政治的」で倫理的な理想主義の傾向との、明治維新以後におけるそれぞれの流れと関わりが論じられていく。
Aの代表者は、たとえば伊藤博文であり、吉野作造であり、美濃部達吉といった、明治立憲(官僚)体制守護派の人々である。
一方、Bの流れには(上に書いたように)、植木枝盛中江兆民西郷隆盛板垣退助北一輝といった人たちが連なる。
ここで明らかになるのは、次のようなことである。

以上のことからあきらかなように、二十世紀初頭の国民主義運動と自由民権運動とを真にむすびつけているものは、官僚的統治に対する共通の懐疑であり、自然権理論の共有ではなかった。(p184)

つまり、人権や自由を唱えた運動も、日本においては、本質的にBの理想主義の運動なのであって、あくまで帝国という枠組みのなかで、Aとの共存構造によって規定されている。
それは自然権思想や、普遍的な意味での立憲主義とは、どこか相容れない部分を持つ、ということになろう。
これが著者の捉え方である。
そして、今の視点から見て、とりわけビビッドに感じられるのは、やはり陸軍の統制派(A)と皇道派(B)とによる、「昭和維新」の推移である。

徳川後期の歴史的原型と同様に、二十世紀の維新主義も、相異なる二つの歴史観、すなわち理想主義的観点と、政治および国家戦略についての実用主義的、功利主義的観点とを結びつけていた。維新主義者は時どき両極に分れた。しばしば論議されてきた陸軍内部の実践志向的な「皇道派」と実用主義的な「統制派」の対立はその顕著な例である。しかしながら、明治維新がめざした、外に対しては国家の統一と膨張主義的な自立国家(幕末には「攘夷」と呼ばれた)、内においては虐げられた人びとに対する社会正義の実現という目標は、立憲政体のもとではけっして完成しないという信念においては、両者は一致していた。維新主義内の理想主義的見解も実用主義的観点も、政治的現状の根底的な否定を内包しており、多様な戦術を通じて権力の新たな編成を要求するものであった。(p200〜201)

統制派の冷酷な実用主義の底にあるものも、立憲主義に対するある種のシニカルな視線であって、それは皇道派の否定的な情熱と、実は異質なものではないのである。それらは共に、立憲主義体制を懐疑し、攻撃する。
だが、すでに述べたように、このシニカルな視線は、明治立憲体制の創始者であった伊藤博文自身の根底にも、すでに存していたものだということが、この本から読みとるべきことの要諦であろう。
ともあれ、現実に立憲体制の破壊に成功したのは、統制派と、その同盟者である岸信介革新官僚たちだったことは、周知の事実である。

このように表面的には立憲制秩序に同一化しているように見える統制派も、実際には皇道派に劣らず急進的であった。大部分の日本の研究者がこれまで一致して指摘してきたように、統制派の立憲制秩序に対する脅威は皇道派の脅威よりも大きかった。(中略)一九三七年の法制化に始まる、労働力と資源の直接統制以下の官僚による全国的動員は、統制派の指導者とその盟友である新設の企画院内の官僚によって立案されたものであった。ブルジョアジーを深く軽蔑し議会政治の不経済性を非難するこれらの指導者は、既存の権力関係の「再建」をめざした。(p210〜211)

一九三〇年代の維新主義についてはさまざまな描き方があろうが、その根底にあった意図はあきらかである。すなわち立憲的法秩序を「再編」すること、いいかえれば、東京の街頭であるか遠く離れた満州であるかを問わず、反抗的な行動でもって立憲的法秩序の諸制約に対して挑戦することが、その基本的な企図であった。(p214)


さて、「戦後」については、著者はどう書いているであろうか。
岸信介ら、立憲体制を根本的に懐疑・軽蔑する人々は、権力の中枢部に復帰した。
だから、

一九二〇年代と同じく戦後の日本においても、現実主義的な立憲政治についての不安が一つの底流をなしている。(p226)

ということになるのである。
その予測が最悪の形で現実化したというのが、今の情勢だろう。
著者がここで言いたいことは、立憲主義は、戦後の日本においても、社会のなかで血肉化されていないのではないか、それはいまだに明治憲法と同じ、(あの「光源」に由来する)空虚さに捉えられているのではないか、ということだと思う。


最後に、ぼくの考えを一点だけ書いておきたい。
著者の視点が重要な示唆を与えてくれるのは、日本では功利主義実用主義の支配に対する抑制が、倫理や道徳規範という形ではなく、天皇という形態によってしか生じないという歪みに、気づかせてくれることだ。
つまり、「天皇」という光源には、倫理の欠如(その正当化)という意味合いが隠されている。折口が、宣長の思想の本義を「源氏」に見出したのは、やはり鋭いのだ。
だが戦後憲法は、明治憲法には欠けていた、倫理的な体験から生じたものだと思える。それは普遍的な体験でもあり、現に(著者が重視する)闇斎や徂徠までの江戸の思想家たちも、その重要さを知らなかったわけではないと思う。
おそらく、その重要さが忘れられたとき、「天皇」という光源が発明され、「日本的近代」なるものが(近代の到来に先立って)始まったのである。
立憲主義の血肉化の要請は、この観点を抜きにしては、果たすことの出来ない課題だろう。