『慰霊と招魂 ―靖国の思想―』

慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)

慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)




この本のタイトルである「慰霊と招魂」だが、これは、靖国神社に代表される「招魂」の思想というものが、近代日本国家による創作物であって、それは古来の神道民間信仰における「慰霊」の思想の伝統とは、根本的に別物だということを示している。
「招魂」の思想の性格は、次のようなことに尽きているのだろう。

幕末維新期の異常な内外の緊張状態のなかで生まれた招魂の思想は、御霊信仰の広大で奥深い民衆的基盤を背景としながらも、日本人の宗教的伝統はもとより、神道の伝統とも異質な観念へと展開し、明治維新直後の神道国教化の過程で固定化した。(中略)招魂の思想、靖国の思想では、天皇に敵対した者は、死後も未来永劫に「賊」であり、その霊を供養し弔祭することなどは思いもよらぬことであった。こういう特異な人間観、霊魂観は、日本人が歴史とともに内にはぐくんで来たヒューマニズムを破壊し去ったのみでなく、近代天皇制下の七〇余年にわたって、日本国民の人間性を歪め、人類愛を敵視して、他民族、他国民とのあいだに人間としての共感を育てることを阻害するという、おそるべき役割を果たすことになったのである。(p54〜55)

私は前回、『神皇正統記』について書いた時に、その中で語られているのは、味方と敵をある水準では同等に扱うような思想ではないかという意味のことを書いたが、本書の著者の村上重良も、古代からの御霊信仰や、とくに仏教の平等思想の強い影響を受けた中世以後の信仰に関して、それらが「敵味方を問わず」供養したり信仰する性格のものだったことを強調している。
そうした性格が、日本に固有のものと考えるべきかどうかは私には疑問だ(たぶん、そう考えるべきではないだろう。そのような考え方自体が排他性をはらんでいるように思えるから。)が、ともかく幕末・明治以後の、招魂の思想・靖国の思想においては、それが失われたということが、ここでは重要だ。


明治初頭に政府が「神道国教化」を目指した時期においては、やはりそれまでの神道の伝統から断絶して、天皇に忠誠を尽くした「特定の個人」を神として祀る、創建神社が多く作られた。

政府が志向した神道国教化は、古代の神道とは異質な、一九世紀なかばの時点でにわかに創案された新しい「神道」であった。(中略)復古の見地からいえば、特定の人間の霊を祭神とする神社は、神道としては異質の存在というべきであった。(p75)

その代表的なものは、江戸後期から大いに信仰されていた楠正成を祀る湊川神社の創建であるという。これは天皇のために忠死を遂げた正成を賛美する「楠公崇拝」こそ、幕末の志士や明治新政府が理想のモデルとした「建武の中興」の物語の中核をなすものだったからで、この時期には、他にも、鎌倉宮や吉水神社など、全国に南北朝時代関連の創建神社が次々と作られていった。
神皇正統記』は、南北朝時代の代表的な史書思想書とされているが、教科書としても盛んに使用されたその内容に関して、幕末から、特に明治に入って、国粋主義的な傾向に沿うように重大な改竄や修正が行われたことも、前回書いた。


靖国神社の前身となった東京招魂社は、日本の軍隊の創始者ともいうべき大村益次郎の肝いりで出来たものだが、やはり戦死していった天皇の忠臣を祀ることで、国民への忠誠心の植え付けと、生者への「忠死の激励」を行うことを目的とした施設だった。
その合祀者の数は、明治維新前後の激しい内戦と、明治以後の帝国主義政策による対外戦争の連続のなかで、加速度的に増え続けた。
明治12年になって靖国神社と改名された、天皇および軍と一体となった、この宗教施設の特異性について、著者はこう書いている。

近代天皇制下の数多い創建神社のなかで、まさしく最大の歴史的役割をはたした靖国神社は、天皇のための死者集団を、均質で無機質の祭神集団に仕立てあげる宗教的装置であった。こうして靖国神社は、無限に祭神が増えつづけ、しかも、どれほど多数の祭神があらたに加わっても、神社そのものの性格にはいささかも変化がないという、神社としてはほかに類例のない特異性をそなえる結果となった。(p111)

つまり、他の創建神社が、楠正成のような特定の個人を神として祀ったのとは違って、靖国神社は、顔のない無機質な集合体としての、「忠死」した臣民たちを祀る神社であるところに特徴がある。
しかも、靖国への合祀は、形式上は天皇の意志によるものとされ、戦没者等の死に対する天皇の褒賞もしくは恩恵として、合祀が行われるという構造になっていたのである。そこには、民衆個々の自由や意志が認められる余地は、はじめから無いといえるだろう。
靖国神社に祀られるのは、臣民に限られており、原則的には皇族は合祀されないということも、はじめて知った(例外は、あったが)。


やがて神道国教化を断念した政府は、天皇にまつわる神道の「祭祀」と一般の「宗教」とを分離することによって、いわゆる国家神道の体制を確立する方針を固める。
神道を「宗教」よりも上位の存在(祭祀)として位置付けることで、実際的には国教としての国家神道を確立し、天皇制を国民に教化していこうとしたのである。

神道界では、神社神道を一般の宗教と別次元におき、神道国教化によって得た特権的地歩を守ろうとする主張が有力となった。政府は、天皇制的国民教化を効果的に進めるために、神社の役割を重視し、神社から宗教的機能を切りすてて、国家の祭祀として、非宗教ないし超宗教のたてまえをもつ国教を確立する方針を最終的に定めた。(p120)

こうして、国家神道のもとに、他の全宗教が(名目上の「信教の自由」と引き換えに)従属し、天皇制の教化のために奉仕するという、「国家神道」体制が確立していく。
靖国神社は、無論、天皇の為の戦争の遂行ということに関わって、このなかで中心的な役割を果たすことになるのだが、著者によるこの時代の日本の政策の変遷の記述を読んでいると、安倍政権下の今の日本の反動化した姿を、そこに重ねてしまうのは、私だけであろうか。

同年(明治14年。引用者注)、政府は高まる自由民権の要求のまえに、欽定憲法制定の方針を決定し、立憲政体の採用という譲歩を示しつつ、近代天皇制国家の基盤をよりいっそう強固にする方策を立てた。政府は、立憲政体樹立後も、軍の統帥権天皇に集中して、議会をはじめ政治そのものから軍を切りはなすことで、民権の伸長を軍の力で制圧できると判断したのである。(p127)

帝国憲法の制定によって、国家神道が公認宗教のうえに君臨する国家神道体制が法的に確立した。同年(明治22年)一二月に成立した第一次山形有朋内閣は、天皇イデオロギーによって国民を系統的に教育して、国体と相容れない西洋流の人権、自由等の思想の進出を防ぎ、来たるべき対外戦争にそなえる方針をきめた。すでに明治一〇年代をつうじて、啓蒙思想、自由民権思想の高揚に直面して危機感を深めた政府部内では、天皇の名による国民思想の統一を企図して、勅修の国民教科書を相次いでつくり、広く国民に読ませることにした。(p133)


歴史家のホブズボームは、19世紀後半以後の帝国主義時代の主要な政治的テーマを、政治の民衆化の要求に直面した旧来の支配層(資本家やブルジョワなど)が、「大衆化した社会」を操作することで権益の維持を図ったことに見ていたと思うが、近代日本の場合、この操作を、天皇を使用した「独特な宗教国家」(本書より)の形成というやり方で行ったということではないかと、私は思う。
大衆社会の操作は、資本主義国においては、ナチスアメリカ合衆国の政治権力に代表されるように広告・宣伝的な手法を用いることが一般的だと思うのだが、日本の場合、一見これまでの伝統に即しているように見えて実はまったく新たな国家的宗教を「創案」するというやり方で、それ(大衆操作)を行ったと思えるのだ。
そういうことを考えさせられたのは、第一次大戦勃発直前の靖国神社の様子を描いた、次のような箇所を読んだときである。

招魂社いらい祭典の名物であった競馬は、すでに一九〇一(明治三四)年に競馬場が廃止されて行われなくなっていたが、祭典ごとの相撲、能楽、花火の打上げなどは、年ごとにさかんとなり、太々神楽、倭舞、手踊、剣舞、生花や、射撃、野試合、騎戦訓練、馬術、母衣引き、剣術、柔術等の武芸も余興として演じられた。社頭には、小屋がけの屋台が並び、見世物、曲技、居合抜き等の大道芸人も観客をあつめた。
旧称の招魂社の名でもっぱら親しまれていた靖国神社は、その厳しいたたずまいとは別に、民衆にとって、きわめて身近な存在であった。靖国神社の存在が、新しく生まれた民衆的な神社として、国民のあいだに定着していったという事実は、国家神道のこの巨大な支柱が、たんに戦没者の慰霊と顕彰の宗教施設であるだけでなく、天皇への滅私奉公の忠誠を教えこむきわめて効果的な教育施設となったことを意味していた。(p154〜155)

靖国神社は、明治初頭からの周到な政策によって、当時の大衆社会に深く根を下ろした空間として存在していたのである。
つまり、「靖国の思想」は、決して大衆(民衆)から遊離したものではなく、政府による大衆(民衆)創出の中核をなすような装置であった。靖国を通して、人々は、心のもっとも奥深いところから、戦争に駆り立てられていった。このことが、大事だろうと思う。
靖国は、今も私たちの心の深奥にあって、侵略や暴力や差別へと、私たちを駆り立て続けているのではないだろうか?


やがて太平洋戦争へと突入していく歴史において、靖国が果たした役割の大きさを、ここで述べるまでもないだろう。
ただ、もうひとつこの本を読んで驚かされたことは、戦後における「靖国復権」の強力な策動の歴史、とりわけ1960年代末から70年代前半にかけて自民党神道界など保守派・右派勢力が推進した靖国神社国営化の動きの、執拗さと強力さである。
当時の自民党は、党ぐるみで、いわゆる「靖国神社法案」を国会に提出し、それは何度も可決・成立の直前まで行った。
どうにか阻止できたのは、創価学会公明党をはじめとする、宗教界や、野党などいわゆる「民主勢力」の必死の抵抗があったからである。
現状を考えると、この点は、まったく心もとない。
そして、今の政権や自民党は「極右化」しているとよく言われるが、また実際その通りだとは思うが、同時に、その今の自民党でも、靖国神社の国営化ということまでは持ち出していない。それにはもちろん、国際情勢の変化など、さまざまな相違が考えられるとはいえ、昔(戦後)の日本の方が今よりも良かった(反動的でなかった)とは、一概に言えないのではないかと思った。
昔も今も、変わっていない悪の表れとして、この現状がある。
そこに示されているのは、「靖国」と、それに象徴される軍国や侵略、戦争の残虐な思想というものが、いまなお本質的にはなんら清算されないままに、われわれの社会の内奥に座を占め続けているという一事ではないかと思うのだが、間違っているであろうか?