『闇の子供たち』

この映画は、思っていたよりもずっとよかった。
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梁石日の原作を読んだのはずっと以前で、内容を詳しく覚えてないのだが、重要なところで映画では設定を変えてある。そこに、強く心を打たれた。


正直途中までは、臓器売買については、一般の観客に対しても「突きつける」という描き方になっていることに感心したものの、児童買春については、欧米人や日本人の客(加害者)の描き方がステロタイプで、あまりよくないなあと思ってたのだが、最後まで見て(上記の設定のことを知って)、その不満は一掃された。
いずれにせよ、それらの行為を行っている当の人だけでなく、そういう行為をいわば構造的に生み出している日本社会なり、先進国優位の今の経済の体制なりを支えている(属している)人間としての、日本の観客すべてに責任を持って考えることを強いる、その機会を与える、という作りになっていたと思う。



ぼくが原作を読んだとき、もっとも感銘を受けたのは、映画では宮崎あおいが演じた女性が、動乱のような状態となった現地(タイ)に残ると言い切ったときの、彼女と主人公の新聞記者の男性(江口洋介が演じている)との、態度の差異だった。
いわば「顔」を持って現地の人たちと人間としての関わりを持とうとする女性と、あくまで日本の社会の論理のなかに留まろうとする男性との、鮮明な対比。
かつて「アジア的身体」を語った原作者梁石日のメッセージの核心は、まさにその場面に尽くされている、とも思えた。
今回も、その場面が描かれているのだが、原作とは別の意味が付加されることになった。
これは、微妙なところではある。


原作では、タイの社会の歪み(警察の腐敗など)や政情と、これらの社会問題との結びつきが描かれ、そこから遠くに日本と東南アジアとの政治・経済の関係ということも背景に見えて、そのなかで動乱のような事態が発生し、あの台詞が言われるのだった。
だが映画では、そうした政治的な視点のようなものは、あまり描かれなかった。
このため、あの集会での銃撃戦の場面も、どこか唐突な印象を残すことになった。
これは、この映画の不満な点なのである。


だが、あのような設定をとることで(ネタバレになってしまうので書けないのがもどかしいが)、あの男女の対比は、やや別の形であるが、鮮明に示されることになった。
それはつまり、たとえば児童買春の問題が、その行為を行っている特定の人だけの問題ではなく、この倒錯した社会に生きるわれわれ全体の問題である、ということを表現している。
そればかりではなく、救済のために行動するということと、倒錯のなかで生きることとの分離しがたさのようなもの、そのことを引き受けることによってしか「顔」をもって他人(アジアの子供たち)と関わることができないわれわれの苦悩と罪が、表現されていたと思う。
これはたしかに、監督の阪本順治が、原作者のメッセージを、自分なりの仕方で受け取り引き受けようしたことの、証しだろう。


それとともに素晴らしいのは、この映画が、投げかけるひとつひとつの問いかけを、観客一人一人に自分の頭で考えさせるように、フィクションとして、娯楽映画として、最大の努力によって作られている、ということだろう。
小さな伏線や、登場人物の微妙な表情といったものを、丁寧に注意深く読み取ろうとすればするほどに、観客はそれだけ物語のなかに深く引き込まれ、そのことによってそのメッセージ(問いかけ)を自分のこととして考える機会に近づく。
一言で言えば、観客を突き放し、自分の頭で読む、考えることを強いる、仕向ける、ということ。
それは、すぐれた劇映画、娯楽映画の条件でもあるが、また社会的なメッセージを人に届けるということは、そういう手法によってこそ、はじめて有効なものになるのではないかと思う。