『昭和期日本の構造』

この本には、著者がまだ大学院生だった1970年代から80年代にかけての論考が集められているのだが、通読して、膨大な資料に基づく緻密な立証や、分析の鋭さもさることながら、読み物としての面白さにもっとも驚いた。第一級のミステリーのように、一度読み始めるととまらないのである。


副題に「二・二六事件とその時代」とあるように、後半では二・二六事件に関することが集中的に論じられているのだが、ここでは初めの方から、特に印象深かった箇所を抜粋して紹介したい。
第二章では、「戦前」と呼ばれることが多い、大戦間期の日本社会の傾向が、「平準化プロセス」という言葉によって大きく把握されている。
大正デモクラシー」に始まる、大衆社会化や民主化、国内的な平等化の傾向というものは、実は戦時中までずっと持続した。これが、「平準化プロセス」の意味である。
今は、格差が拡大する社会だとか、階級が復活する社会だとか言われるが、「戦前」の日本は、その意味では逆だったことになろう。実際、スターリンソ連ルーズベルトアメリカ、英仏ばかりでなく、ナチスムッソリーニの党も「社会主義」を標榜したわけで、大衆社会化は大戦間期の世界的な動向だったとも言えよう。
なお、この動向が戦後にまでつながり、各国の福祉国家的体制の元になったという見方は、日本でも後に「1940年体制」(野口悠紀雄)などという言葉によって論じられ、新自由主義的「改革」を正当化する論拠となったと思うが、著者はこの本の文庫版あとがきのなかで、そうした主張には自分は与しないということを明言している。


さて、この平準化の傾向に沿った思想・運動の例として、著者はアナキズムマルクス主義などの社会主義的思想、陸軍の将校たちが志向した総力戦思想、また岸信介などの「革新官僚」の思考、北一輝に代表される当時の右翼の超国家主義(「一君万民思想」)などを次々に分析していく。
特にぼくが興味深いと思ったのは、右翼思想のなかでも、権藤成卿橘孝三郎らの「農本自治主義者の思想」について、それが明治政府以来の中央集権的な国家主義とも、北一輝のような超国家主義とも対立的な、「自治主義ないしアナキズムに近い発想」をもっていたとされている点だ。著者は、大杉栄の死によって途絶えた、アナキズム的な思想の流れの存続の可能性を、そこに見ているようでもある。
昭和初期の社会主義弾圧を生き残った社会大衆党などの社民主義政党が、やがて軍部による侵略が深まっていくと、戦争支持に傾いていく大衆の動きに動揺し、「軍部こそ社会主義を実現してくれる」という倒錯的な論理まで語って時流に迎合するようになり、やがて翼賛体制に呑みこまれていくくだりも、真に迫るものがあった。
また、若い頃の岸信介北一輝の『日本改造法案』に傾倒していたという話も面白いと思った。北の改造思想には、天皇を含めた全てを改革のための駒と見なすような一種の冷酷さや破壊性があると思うのだが、そういう機会主義的な冷酷さを、岸は心理的に受け継いだのではないかと思ったからだ。


こうしたいくつかの平準化のあり様のなかでも、陸軍の将校たちによる「総力戦思想」、「総動員体制」の思想は、昭和前期の歴史の中にとりわけ大きな結果を生じさせたものだといえよう。
第四章では、彼ら軍事エリートたちの思想と動向が、きわめて綿密に論じられていて、たいへん興味深い。
彼らの発想の根源は、欧州で第一次大戦の実情に接して、現代における戦争とは国民国家大衆社会の全体を巻き込んだ「総力戦」にほかならず、「国民と軍隊との一体化」を成し遂げなければ勝利はないと、痛感したことにあった。
そうした認識は、昭和に入って「満蒙問題」が深刻化すると、いっそう切実なものになっていく。
このグループの中心だった永田鉄山が提唱した「総動員体制」というのは、こうした発想にもとづくものであって、後に太平洋戦争開戦の直前に敷かれた総動員体制とは異なり、来たるべき戦争の準備として、生産力を増大させ、また国民の生活を向上させて社会の安定を図り、それによって国民と軍隊との一体化を進めていくための方策だったのである。
これは言ってみれば、敵国と戦う以前に、まず自国の「大衆」をどう獲得し操作するか(ないしは制圧するか)ということが、これら軍事エリートたちの最大の関心事項になったのだといえるが、そのあらわれの一つに「宣伝戦」、特にスローガン(「モットー」)の重視という事があった。
第一次大戦が宣伝戦だったという認識は、将校たちに強烈なインパクトを与えたと、著者は書いている。
当時は、「満蒙」への進出が帝国主義だと国民に思われたのでは都合がわるいと考えられ、それを防ぐための宣伝コピーを案出するのに、軍事エリートたちが四苦八苦する様子が、勉強会の記録から浮かび上がる。
その議題が出た当日の勉強会では、これが貧しさと国土の狭さゆえのやむを得ぬ膨張政策であることを強調しようとしてか、「貧国日本」、「国際プロレタリア」、「貧強日本」、「貧健日本」、「神州は貧なれども健なり」などといった、自虐的(?)とも思える迷コピーが相次いだが、数週間後に行われた次の勉強会では、「込みあいますから大陸へ」といったそれなりの案が出てきているのは、相当頭をひねったのだろう。
それにしても、「膨張」であることを隠さず、それが帝国主義とは異なるものだという発想は、今から考えると、理解しにくい。
一つには、当時の「満蒙」はどこの国の領土でもなく、そこを力で奪っても(当時の)中国政府も文句を言ってこないだろうという判断が、将校たちにはあったらしい。しかし、どこの領土でもなければ力ずくで盗ってよいという考えも随分だ。安倍政権下の今と同じで、現実の世界と頭の中(妄想)の世界との区別がついておらず、自分の欲望を他者の世界にまで拡張することを当然のように思っていたのではないだろうか。
こうした感覚(目線)は、自国の大衆へも向けられ、同じ日の会議では、大衆というものは困難に直面しないと団結しないものだから、総力戦が可能な社会にしていくためには恒常的に戦争を行っていく必要があるという意見が、はっきり述べられている。戦争を引き起こすことが大好きだった日本の軍事エリートたちの本心が、よく示されていると言えよう。


先にも書いたように、後半の数章は、おもに二・二六事件をめぐることが書いてある。
この出来事についての著者の基本的な見方は、それがたんに天皇を崇拝する青年将校たちによる直情的な行動ではなく、綿密に計画されて、政治的成功の一歩手前まで行ったクーデターという面を持っていたということだ。
それを阻止した最大の功労者は、土壇場で秀抜な政治判断を下した内大臣秘書官長の木戸幸一であったという。

見られるように、「蜂起」の「成功」の可否の焦点は常に「暫定内閣」をめぐる点にあった。最後の時点でも、青年将校に有利な暫定内閣さえできれば、彼らはたとえ捕縄されても恩赦の形で出所することは可能であり、木戸の政治的資質が非凡でなければ、まさに「実質的には反乱軍の成功に帰すること」になったであろう。(p277)

ところで、この事件については、これを通して結果的に権力を握ることになる統制派による陰謀、ないしは「罠」であったとする見解がしばしば見られるが、著者はこれには否定的だ。
皇道派の軍人たちが何かを起こすであろうことは、統制派も軍や警察の上層部もある程度分かっていただろうが、まさかあのような、軍隊を動員する大規模な反乱事件が発生するとは、誰も予期していなかったであろう、ということである。
それはともかく、この出来事のあと、陸軍内部では統制派によるヘゲモニーの獲得が劇的に行われる。それは、皇道派の駆逐ということだけではなく、上層部の将軍たちも一掃するというものであった。この「もう一つのクーデター」こそ、その後の日本の運命を決定づけた、真に重大な事件だったのである。

武藤ら中堅幕僚は、前者を通じて皇道派の首脳を軍から負うとともに、軍の老人支配体制を打ち破るという二重の勝利を得、後者を通じてロボット化しやすいトップをもってこれを操作しつつ政治に介入していくという体制を打ち固めることに成功した。これは文字どおり「一種のクーデター」と言いうるであろう。(p339)

このようにして、永田鉄山にはじまった、総力戦派、統制派の野望は実現していく。
だがそれは、やがてこれらエリート集団内部の権力闘争の果てに、現実への認知と対応力のさらなる衰退を軍部と日本全体にもたらし、泥沼の戦争と敗戦へと日本を導いていく結果になるのである。