スターリン体制と思考の硬直化

前回書いてから日にちが経ったが、ようやくこの本を読み終わりそうだ。
まだ付け足すことがあるかもしれないが、一応ここまでで印象的だったことをまとめておきたい。

スターリン―政治的伝記

スターリン―政治的伝記




まず、最も肝要な点は、スターリン体制とソビエト・ロシアの民衆との関係である。
「大粛清」と全体主義国家の悲惨さを知っているわれわれは、スターリンの体制を、民衆を恐怖と管理と洗脳によって支配したものとだけ考えがちだが、著者が強調しているのは、スターリン体制は(特に第二次大戦が終わった頃までは)民衆からも、また政敵をも含めた政治家や党員たちからも、基本的には広く支持され、支えられていた体制だった、ということである。
これは、戦前・戦中の天皇制国家日本について考える際にも、ある程度は参考になる論点だと思う。
スターリン体制の場合、これには、ロシアの(大国主義的でもある)ナショナリズムという面からと、社会主義国家(革命の祖国)という面からの、二つの面があると、ドイッチャーは捉えているようである。
スターリン体制は、ロシアや周辺地域(ソ連邦となった)に、それまででは考えられなかったような奇跡的な工業化と近代化をもたらした。この仕事は、スターリン以外のソ連人には出来なかったであろう。また、ナチスドイツによる侵略という未曾有の国難を、スターリンの強力な指導下で凌ぐことが出来た(もっとも、スターリンの失政によって、あれほどの大きな被害がもたらされた面も否定できないのだが)。
こうしたことは、ロシア人やソ連の人たちのナショナリズム民族意識・国家意識)を、その限りでは大いに満足させた。
特に革命後、祖国を孤立においやって苦しめた諸外国(資本主義諸国、ナチス)に対する民衆の怒りは、自国の独裁者への反感を忘れさせるほどに強かった、ということだ。これは、大変に重要な点である。
そして、先述したように、スターリン体制とその「一国社会主義理論」が、安定と国民的矜持を欲する大衆の心理に、よく適合した(むしろ、それを無意識に反映するものだった)、ということも重要だろう。
同時に、革命を経験した政治家や党員にとっては、スターリン体制以外の体制によっては、「社会主義国家」を守れないであろうという共通理解があったはずだと、ドイッチャーは考えているようだ。「大粛清」全体の野蛮さや醜悪さは論をまたないとしても、それ以前に行われた党内の権力争いの過程でスターリンの多くの政敵たちが、しばしば容易に自己の過ちを認めて処分を受け入れ、スターリンの集権を強める結果をもたらした背景には、自己を犠牲にしてでも「社会主義国家」を守ろうとする根本的な動機があったのではないか、ということである。
それは「革命の祖国」への思いということだが、これはソ連共産主義者たちだけでなく、当時はコミンテルンを通じて世界中の共産党員に共有されていたものだったことは、よく知られているだろう。


次の点だが、スターリンが権力を握るようになって、ボリシェビキ共産党)の体質が硬直していく過程について、ドイッチャーは、このように書いている。

レーニン在世当時は各党派間の境界線は固定したものでなく、またはっきりとひらかれていなかった。党派は政局の変遷に従って結成され、解散した。情勢、問題、態度の変化に応じて、個々の党員は一つのグループから他のグループへ移った。昨日の左派は今日の穏健派であった。また逆に昨日の穏健派が今日の左派であった。当時はグループ、派閥、分派に対する忠実さということにほとんど意味がなかった。だが、今度できた新体制は全く別種のものであった。この新体制は不動の論争点と厳格な境界線を持ち、あらゆる面で取り返しのつかない最終的決着の表象を備えていた。左派も右派も、ボリシェビキ政策のほとんどあらゆる面について相互に対立する綱領、スローガンを掲げて対決するようになった。(第二部 p4)


これは、革命運動の一種の退化と言わざるを得ないだろうが、こういう文章を読むと、僕たちはいまだに「内なるスターリン主義」を脱していないようだと、実感させられる。
これは日本の戦前のいわゆる「転向」についてもよく言われることだが、議論や相互批判において考え方が硬直する、教条化するということは、自由に物事を考えて自分の責任で判断するという態度を放棄していることだから、もう半分は転向しているのと同じなのである。その後の「大粛清」で、あれだけ多くの人たちが(沈黙や否認のうちにではなく)自己批判の後に粛清されていったということは、そこに拷問や家族を人質にとられるなどの強制力が働いたことは間違いないにしても(ドイッチャーが言っているように、トロツキートハチェフスキー派の軍人たちのように、それでも最後まで屈しなかった人達も居たのだから)、やはりこうした思考の硬直化、自由な思考と判断の放棄という傾向が、その背景にあったのではないかと思う。


もう少し書きたいのだが、長くなるので次回にします。