『中世社会の基層をさぐる』

中世社会の基層をさぐる

中世社会の基層をさぐる


日本中世史の泰斗である勝俣鎭夫の近著。
学ぶところ、きわめて大きな本だ。


この本を読んでわかることの一つは、信玄や信長などの戦国大名が勢力を誇った戦国末期が、権力による統治の仕組みが大きく変わった時代であるということだ。
たとえば、琵琶湖の南西岸にある滋賀県堅田というところは、中世には堺や博多と同じ自治自由都市として非常に栄えたところであった(七章「本福寺文書」を読む)。ぼくは二年前の夏に、湖岸をブラブラ歩いていて偶然この町に迷い込んだことがあり、その落ちついた佇まいに深い印象を受けたのだが、そんな歴史があることは、この本を読むまで知らなかった。
ところで、その繁栄をもたらした重要な理由の一つは、自分たちは琵琶湖の湖上支配権を持つという堅田の人々の主張が広く認められていたことにあるのだが、それには「当知行」と呼ばれる中世独特の慣行のようなものが関わっていたらしい。「当知行」とは、長い年月にわたって土地などを実際に経営・耕作し続けている者には、公権力から与えられ認められた所有権とは別の、それに対抗する所有権があるという一般的な通念のことらしい。
つまり中世には、その場所で現実に生活している(してきた)者(民衆)の遂行的・実態的な権利が、法的・制度的に認定された所有権よりも上位のものであると、幕府でさえ認めざるを得なかったのである。
戦国大名たちが行ったのは、こうした中世的な所有や支配の論理と仕組みを、次第に近世的な制度へと移行させていったことだと考えられるのだ。
五章「穴山氏の「犬の安堵」について」では、戦国大名たちが狩猟民などの「山の民」を、どのように徴税などの新たな支配・統治の仕組みのもとに統括していったかが、具体的に書かれている。たとえば、狩猟に使う犬一頭一頭や、道具の一つ一つに至るまで、権力による所有の保障(安堵)の対象とすることによって、領域を確定できない遊動的(柄谷行人)な人々の生活全体が、支配の仕組みの中に組み込まれていったのが、この時期だったのである。

以上のように、戦国大名は、人間や家や田畠だけでなく、それぞれの生業に必要不可欠な得分を生みだす生産財・道具などを数量的に把握し、役賦課の対象とすることが一般的であったことが知られます。(p151)

著者は、こうした政策の遂行を、新たな(近世的な)支配権への拡大・深化の過程として捉えるわけである。
そうした変容は、政治・軍事的な側面においてみるなら、「兵農分離」と呼ばれる過程として捉えることができる。やがて「刀狩り」という全国的な徹底した形態をとることになるこの政策の本質は、「地侍」などと呼ばれた、領主(幕府の守護)に対しては領民・百姓でありながら、戦国大名に対しては兵士という、複合的で扱いにくい(氏族的な)集団を、侍(兵)と農民という、二つの階層にすっぱり区分することで、制度の中に取りこむということだった。
ここでも、動的ないしは横断的な性格を持つ集団が、近世的な制度の中に組み込まれて、その「扱いにくい」性格を奪われていく過程を見ることが出来るわけだ。
三章「戦国の家法と家訓」のなかには、こう書いてある。

戦国大名は、国人・国衆などと称される領主を服属させるとともに、これら地侍を組織化し、軍事力を増強することが必要であった。前田利家らに代表されるような新しい支配者に成り上がった地侍は決してめずらしくなく、また江戸時代の幕府・大名の中・下級家臣団の中核も、これら地侍で占められていた。一方、これら地侍のなかには、村に基盤をおいて百姓の道を選び、江戸時代、庄屋・大庄屋などをつとめ、近代まで家を存続させた者も多かった。(p98)


だが、本書の最大のテーマは、書名にも示されているとおり、時代を越えて今日のわれわれの社会の基層をもなしていると考えられるような要素を、中世の社会・文化の考究を通して捉えるということだと言えよう。
一章「バック トゥ ザ フューチャー」では、当時、一揆によって勝ち取られた徳政令の文言を刻んだ碑文等に記された「サキ」や「アト」という言葉の意味が、今日の用法とは異なっていた(逆であった)という事実が証示されており、それを読むことで、過去や未来に対するわれわれの考え方が、近代主義の枠組みに規定されたものに過ぎないのではないかという疑いが、具体的に立ち上がって迫ってくることになる。

すなわち、古代・中世社会に生きた人々は、未来に背を向け過去と向き合うという姿勢で時間を認識していた。このような人々の時間に向き合う姿勢のもとでは、堀田さんがのべているように、見ることができない未来に生きていく手掛りは、眼前の過去と現在を見据え、そこから学んだ経験しかないという歴史主義が基本的観念となるのは当然である。(p22)

この姿勢のイメージから著者が思い浮かべるのは、『われわれは、後ずさりしながら未来へ入って行く』というヴァレリーの言葉と共に、ベンヤミンが「歴史の概念について」で描いたクレーの「新しい天使」、あの破局の中で積み上がっていく眼前の膨大な瓦礫の山を修復しようとしながら、なすすべもなく背後の未来へと押し流されていく天使の姿だ。
だが、このような姿勢を、今日的な意味でたんに「後ろ向き」だと言えるであろうか?徳政一揆の史実が、それに対する反証になっていると思われる。
また、収録された論考の中ではもっとも古いものらしい、四章「日本人の死骸概念」が突きつけてくるのは、日本でも、中国やヨーロッパなど各国でも、かつては死骸が、生と死の「境界状況」にあるものとして、実体的な威力を有する存在と考えられた(というより、事実そうであった)ということである。
そこから、死骸をさらして傷つけたり辱めたりする刑罰が、非常に強い意味を持っていたということや、あえて壮絶な死に様を生き残る者たちに見せつけて自害する行為に、生者を束縛する重要な効力があったことなどが論じられていく。ここから、楠正成の死の政治的意味や、始皇帝諸葛孔明の死をめぐる伝承について考え直してみることも出来そうである。
また著者は、この「死骸概念」を、現在における遺言や相続法、そして日本独特の厳格な「敵討」思想といったものの、実体的な起源ないしは根拠としても捉えようとする。

この父子敵対におそらく時代的には先行して、父子敵対の威嚇を強調するために用いられた死骸敵対の罪は、まず社会的罪としてより古いところにその源を持つと考えられる。父子敵対の以前に死骸敵対があって、それが次第に父子敵対という言葉に変えられていって姿を消した、というふうに推定できる。非常に古いところにその源があって、しかも権力がつくった罪とか何とかいうのではなくて、社会的な一つの罪として社会の基層部に深い根を持つものであるといえる。(p135〜136)


こうした著者の発想の重要な特徴は、そういった「基層」を日本ローカルの文脈のなかだけでなく、より普遍的なものとして捉えようとする文化人類学的な視野の広さにあることも事実だろう。
本書の中心部分をなすといえる、二章「中世の家と住宅検断」は、その意味でも、とりわけスリリングな論考だ。
ここでまず語られている重要なことは、よく言われる「家」概念というものに、やはり実体的な根拠があるという知見だと思う。それは、日本の中世においては、「家」はそれ自体生命と魂を持つものと考えられたから、家(家屋)自体が、犯罪によるケガレが発生した場合の「検断」(処罰・処分)の対象とされ、焼却されたり壊されたりしたのだ、という見解である。
家が生命を持つといえば、昔、大林宜彦監督の『ハウス』というホラー映画があった。また、「家自体が意志を持ってるわけではないが、この家(部屋)があなたの人生に影響を与えている」といった言い方は、今日でも時折聞かれることのあるものだろう。
そうしたことにも、著者のいう歴史の「基層」の実在を感じとることが出来ると思う。
ところで、この見解は、かつて(「家を焼く」というたいへん有名な論考によって)著者自身が提示した、これらの住宅検断を、犯罪などによって生じたケガレを領内から除去する手段として理解するという説への、修正の意味を持っているとのことである。それで思い出したが、ぼくはかつて、中村雄二郎の『悪の哲学ノート』によって、著者のこの説を知り、下のようなエントリーを書いたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20121222/p1

自分で読みかえしても要領を得ない文章だが、ともかくここでは、著者(勝俣)のその説を、生田武志氏が語った野宿者(ホームレス)襲撃の問題に結びつけて考えていたようだが、本書での著者の見解は、文字通り「家」(ホーム)が生命を持つ存在として実体的に人間の生を規定するという、潜在(基層)的な観念の威力を示唆したものだとも考えられよう。
脇道にそれて、さらに強引な類推を重ねさせてもらえば、制度にとっての目印でもある「家(ホーム)」を持っていないという事実が、共同体の安定を動揺させるような要素、つまりはケガレと感じとられ、その動揺から逃れるために、そうした他者に向って「放火」という形で攻撃性を差し向ける。その殲滅的な暴力の行使を通して、主体は共同体(秩序)との同一性のもとに自己の欲動を復帰させようとする。そんなメカニズムが考えられるかもしれない。
この場合、攻撃(浄化)の手段である「火」そのものも、「燃え移る」というように、強度の感染性を帯びていると考えられるのが、興味深いところだ。
それはともかくとして、本書の二章「中世の家と住宅検断」に戻ると、著者はその後半では、中世における「家」の伝統的イメージが、カマドに焚かれた「家の火」を中心とした生活の場というものだったことに着目し、それを高名な中世史学者クーランジュがかつて提示した、カマドの火に対する信仰を中核とした原初的家像の説に結びつけている。
このような人類学的視点から、日本古代・中世史へと折り返して、著者は日本においても、かつてカマドの火が家や氏の象徴と捉えられていたこと、カマド神がすなわち氏神・祖先神であったということなどを論証していく。それはたとえば、天皇自身や天皇家に嫁いだ女性たちが、それぞれの家のカマド神の分有とおぼしき炉を携えていたことにも示されているのだが、このような「カマドの火」が象徴するもの、つまり「家」を媒介とした横断的でもある氏族・家族の集団的結合という理念は、歴史のなかで次第に忘れられていったのだという。

以上のような祭の儀礼をとおして、カマド神は、家の成員の守護神としての位置を存続させていくが、カマド神が氏神・祖先神であるという本来の観念は、道教や仏教さらには神祇などの上位の宗教のもとに吸収され次第に忘れさられていった。(p62)

忘れられ、いわば基層に埋められて隠されたのは、「カマドの神」「家の神」が本来持っている集団的で反国家的な連帯性の実感だったのかもしれない。
ここで、アンティゴネーの反抗の物語を想起するのは、むしろ自然だろう。
ところでぼくが、「家」を司るカマド神についてのクーランジュや著者の思想に触れながら思い出していたのは、ジャン・ジュネが、1970年のヨルダン軍による難民キャンプへの激しい攻撃の直後に、廃墟になった「かまど」の脇でパレスチナ人の女たちと交わした短い会話のことだ。

最初のイメージとその調子は、アンマンの高台に聳える地区、ジャバル・フセインで、四人のパレスチナ人の女たちから私に与えられた。年老いて皺の寄ったその四人の女たちは、火の消えたかまどの周囲にうずくまっていた。かまどと言っても、黒ずんだ石コロが二つ三つ、それにデコボコになったアルミニウム製のティーポットがあるだけだ。彼女たちは私に座るようにと勧めてくれた。
― あたしたちは我が家にいるんだよ、ね。お茶をどうだい?(彼女たちは微笑んでいた。)
― 我が家?
― そうだよ。(彼女たちは笑う。)火をおこすのにも、もう石コロしか残っちゃいないけどね。あたしたちのボロ家は焼かれてしまったのさ。
(中略)
女たちの内にある抵抗の手段の方が、おそらく、男たちのなかのものよりも大きかった。
(「ジャバル・フセインの女たち」『公然たる敵』所収。月曜社 2011年)

ここでは、攻撃によって生まれた廃墟のなかで、カマドの火を中核とした「家」が基層から掘り起こされ、その本来の姿と権能とを露呈させているようにも思えるのだが、どうであろうか?