『ゾルゲ事件とは何か』


だいぶ前から読みたかった本だが、先日、やはり図書館で借りてきて読んだ。
僕は引き込まれてあっという間に読んだが、密度がすごいので、本を読みなれてない人には、とっつきにくいかもしれない。


この本は、戦前に起きたいわゆる「ゾルゲ事件」を、ゾルゲよりもむしろ尾崎秀実を中心にして描き、同時にこの事件の「真実」をめぐる戦後(1990年まで)の各国での「情報戦」の推移を詳細に追ったものである。
つまり、ゾルゲ事件そのものと、その実態と解釈についての論争や「工作」という、二種類の「情報戦」を描いたものになっている。そこから、目まいがするような感覚が生じる。
 しかも、著者のチャルマーズ・ジョンソン自身が、一時期CIAで中国情勢の分析に関わる仕事をしており、それをブルース・カミングスら後続の歴史家から批判されたりしたこともあるということで、どこか尾崎の葛藤する姿とだぶるような気もしてくる。そういういわば著者の実存的な息吹を感じさせる本でもあるのだ。
 実際、この本の核心ともいうべき、著者の描く尾崎秀実像は、著者の東アジアに対する眼差しや姿勢と重なるところがあるのではないかと思う。最初の方に、簡潔にこう書かれている(ちなみに、この本の大部分が書かれたのは1964年のことで、まだ著者がまだCIAでの仕事に就く前である)。

尾崎はその育った生活環境、経験、それにその知識から政治活動に駆られるようになった知識人である。そして彼が直面した問題は現在世界中の誰しもが向いあっているものである。つまり中国の統一と中国人民の目覚めに自分の国がどう対処するべきかという問題である。(p6)

  本書では、尾崎だけでなく、ゾルゲをはじめ、宮城与徳アグネス・スメドレー、ウィロビー(GHQ)、伊藤律日本共産党)ら、いわば脇役の人たちも非常に興味深く描かれるのだが、ここではやはり著者の描く尾崎像に絞って紹介しよう。
後に近衛内閣の中国問題のブレーンともなる尾崎秀実は、日本の植民地だった台湾で生まれ育つ。そこで日本による植民地支配の実態に触れたことが最初の原体験になったというのは、埴谷雄高を思い出させる。さらに、学生時代に経験した関東大震災での朝鮮人及び左翼の虐殺や、朝日新聞の記者として滞在していた上海で見聞した日本の中国侵略の実情(上海事変を含む)などによって、次第に思想傾向が形作られる。
基本的には、抑圧された中国人民とアジア全体の帝国主義からの解放を願う心情がベースにあり、そのための手段としてコミンテルン共産主義)やゾルゲに接近することになったというのが、著者の見方である(ゾルゲは、自分がコミンテルンの所属ではなく、ソ連赤軍の諜報員だということは、最後まで尾崎にも、他の同志や協力者にも明かさなかったらしい)。
 

著者の尾崎観を、もっと詳しく見ておこう。

尾崎は、鍵のかかったロッカーから盗み出した書類を写真にとったり、会議室のテーブルの下に盗聴マイクを仕かけたりするようなスパイではなかった。彼は政治情勢を客観的な論文にまとめあげる一級の分析専門家であった。彼が、「諜報行為」を行う上で一番必要としたのは、自分の個人的な考えを実際現実の政策決定者たちにぶつけてみて、それが正しいかどうかを確認することであった。一九四二年四月一日、検事の玉沢光三郎に尾崎は「諜報技術について述べよ」と聞かれてかなり驚いたように見えたが、次のようにこと細かに答えた。「私の諜報の態度あるいは特徴ということを一言にして言えば、いわゆる技術的な考慮を持たなかった点にあると確信しております。これは別の観点から言えば、その態度が一つの技術であったとも言い得るのでありましょう。私は元来社交的人間好きでありまして、たいていの人とは、毛嫌いせずつき合ったばかりでなく、人には親切な方であります。従って交際の範囲はただ広いばかりでなく、相当の深さも持つのが常であります。私のいわゆる諜報の源泉は、かかる人との交際の中に求めることができます。
 かつ、私の情報に対する態度は箇々の細かい情報を箇別的にあさるという態度ではなく、まず何よりも自分自身の一定の見解を定め、全体の包括的な事実あるいは流れの方向というものを作り上げるのに箇々の情報を参考とするという態度をとりました。従って私とつき合った人々は、私が情報を欲しがってあさっているという感じは、決して得られなかったことと確信しております。多くの場合、私にはすでに一定の見解なり情報らしきものがすでに集積されていて、相手方はむしろ私から情報なり、意見なり、見通しなりを聞かされているという感じを受けたことと思います」。
 尾崎はさらに、激しい流動と混乱の時代には細切れの情報は使いみちがないと述べた。彼は、軍部や政府の指導者たちの姿勢を評価する際には、一時的な状況はいつも無視し、現象の底に流れているものの客観的な分析と、日々の情勢の進展を関係づけるようにしたと語っている。この点からみても彼は、内外の著作者に、一般に政策の決定者というよりはむしろ、政策の追従者として特徴づけられているような日本の政治家たちとは異なっていた。唯一、尾崎がつねづね注意を払っていたのは、「日本がソ連を撃する時」であった。(p187〜188)

すぐれたスパイとはどんな特質を備えたものかと意見を迫られた尾崎は、まさに彼自身を特徴づける次の二つを挙げている。「最大の秘訣は、要するに人間的信用を相手に与え、何らの不自然なく情報の交換をなし得るごとき情況を作り出すことが前提であります。
 以上と関連して情報の性質にもよりましょうが、私のごとき立場からは充分よく研究と経験を積んで、自分自身が綜合判断の一箇の源泉たるごとく自らを完成する・・・」。尾崎が昭和研究会、内閣、朝飯会に居座り続けられたのもまさに総合的な判断力を持った情報の源泉だからだった。職業的なスパイというものはいつも偽装のことを心配するものだが、尾崎は厳密に言って己に隠れ蓑を着せるようなことはしなかった。彼は正真の政治分析家であり、戦前の日本政治の惨状に関わった一人だった。彼は、多数の日本の知識人と同様、侵略政策の愚かさを政府に警告しようとした。だが尾崎は、自由主義者たちの努力が多分無為に終わる場合の埋め合わせとなるように、ゾルゲを介して国際政治に影響をおよぼせるよう、独自の動きをしていた。スパイは己を偽装するものという考えと、ことに尾崎が著作を通して世に訴えていたその行為との相容れなさは、他に論理的に説明しようもない。(p188〜189)

戦時体制においては、人間らしくあることが、すなわち「スパイ」や「反逆者」と名指される条件のようになってしまうということが、よく分かる。
尾崎には、政治的現実に対する認識の致命的な甘さ(たとえば、ソ連の国家体制を信頼していたり、コミンテルンソ連を別個のものと考えていたりすること)があったことは、著者も指摘しているが、とはいえ、彼が日本のソ連攻撃に最大の注意を払ったのは、それが彼の考える「アジアの解放」を決定的に阻害する出来事になると思ったからだ。「アジアの解放」(帝国主義と差別の排除)という目的に反しない限りにおいては、彼はまた「愛国者」だったと言えるかもしれない。

しかしながら、ソビエトに対する日独の協働を妨げる上でゾルゲと尾崎が大きく寄与したことは諜報活動とは全く別ものであったともいえよう。二人は一九四一年の間ずっと日独両国が協力してソビエトに当たらないよう、枢軸の指導者たちに働きかけていた。これは最大の慎重さと、気配りを必要とする非常に危険な冒険であり、モスクワはこれに対して決してはっきりと是認の態度を示すようなことはなかった。しかし、尾崎もゾルゲも自分らが置かれた高い地位からして、政治的決定に関する情報を収集するばかりではなく、そういった政治的決定自体を望ましい方向に持ってゆくようにすることも必要であると感じていた。(p236)

彼(尾崎)は、共産主義者、知識人、政治家としては、自国にとっても、生きた時代からしても、全く典型的な所はない。おそらく日本で最も傑出した政治学者である丸山眞男は、軍国主義華やかな時代について「権力構造の頂点から底辺まで、個人が真に自由で何らの束縛も受けずに存在することは全く不可能であった」と述べている。尾崎はこうした枠の外にあった人物であった。尾崎は、権力構造のなかで生き、思考し、行動したが、その理想は自身のものであり、自分の生きた時代での重大な出来事を、他に頼らず自分なりに評価して、その中から行動の理念を引き出していた。(p293)

人間として最も重要なことは、彼が観察者のままではいられなかったことである。彼は信念に生命をかけたのである。(p317)


ゾルゲ事件の全体について、特高憲兵隊は元々、事件発覚前から尾崎を潰すべき対象キーパーソンとして狙っていた節があり、実際にこの事件の発覚を契機として近衛文麿に代表される非軍部勢力が一掃されて軍部独裁的な体制が確立したということから、この事件はそもそも軍部・当局によるでっち上げであって、尾崎がスパイであった事実など存在しないのではないかという議論もあったようだ。
 この説は、特に、戦前には尾崎の同僚であり、戦後は日本社会のなかで要職をしめることになったリベラル保守の政治家や官僚によって語られた。 
 だが、著者は、そうした説を次のように否定する。ここには、著者の尾崎に対する見方の本質と、著者自身の気概のようなものが、よく示されていると思う。

日本の文官の尾崎の友人たちが、彼がスパイであったなどとは信じきれないでいたこと、そのこと自体は、尾崎のことよりもたぶん彼ら自身のことをより多く物語っている。彼らは中国に関する情報には疎かったし、自分らの国が大陸でやっていることも知らなかったし、また知りたがってもいなかったのである。(p357〜358)