『金枝篇』・呪術と宗教

金枝篇 (1) (岩波文庫)

金枝篇 (1) (岩波文庫)


昨日の記事のなかで、本書では呪術と科学が同じ側に置かれて宗教に対置されている、というようなことを書いた。
これは、ちょっと分かりづらいと思うので、フレーザーの記述に即して、もう少し説明しておきたい。
岩波文庫版(永橋卓介訳)の第一巻に入っている、第四章が、まさに「呪術と宗教」という題である。
この章の最初のところを読むと、フレーザーが主に、プラグマティックであるという意味で(つまり「技術」として)呪術と科学とを同種のものと論じていることが分かる。

すなわち、その(=呪術の)基礎的概念は、近代科学のそれと一致するのである。全組織の基調は、自然界の秩序と統一に関する、盲目的ではあるがしかし真実で確固たる信念なのである。(中略)彼(=呪術師)はどんな尊い威力にも祈願することはない。(p126)

呪術も科学と同様に、自然界を、一定の普遍の法則が支配するものと捉えるものだと、フレーザーは言う。呪術が科学と異なるのは、ただ前者においてはその信じている法則の内容が誤っているという一点だけである。

それで、呪術はすべて必然的に虚妄であり無効であると説くのはもはや愚論であり贅言だとも言える。それがもし真実に有効であるなら、もはや呪術ではなくて科学だからである。(p128)

フレーザーが、近代社会では蔑視の対象である「未開人の心性」(呪術)を擁護したいというのは分かるのだが、「理性」の道具と一応は見なされている科学を、基本的には呪術と変りのないものと断じ、科学と呪術との差異を「正誤」の一点に限定したうえで、その差異はたいしたことではないかのように論じる姿勢は、今日の目から見ると、危ういものに思える。
技術ならざる科学的理性というものへの敵意に似たものさえ、そこには感じられるからである。




それはそれとして、フレーザーはさらに、ここからは、呪術と宗教との大きな差異に言及していく。

さて、私の理解するところでは、宗教とは自然の運行と人間の生命の動きに命令しそれを支配すると信ぜられる超人間的な諸々の力に対する宥和または慰撫にほかならない。(p129)

つまり、宗教の本質は、超越的な存在に対する依存的・従属的な態度にある、と言いたいのであろう。
先にも述べた、自然法則の不変性ということについていえば、その逆に自然界は、超越者(人格神)のお心一つでどうにでも変りうるものだという他力的な発想が宗教の本質であると、フレーザーは見ているようである。

さて、自然のこの伸縮性または可変性は、科学の原理および呪術の原理とは正面から対立する。科学と呪術は、自然の運行は非伸縮的であり不可変的であって、脅迫と威嚇によっても、説得と懇願によっても転向せしめることの不可能を予想するのである。相反するこの二つの宇宙観の間に横たわる相違は、「宇宙を支配する力は意識的でありまた人格的であるのか、あるいは無意識的でありまた非人格的であるのか。」という根本問題に対するその答えに現われて来る。(p130〜131)

このように、懇願によってその行動を転向する意識的能作者(=超越神、人格神)によって世界が支配されていると考える限りにおいて宗教は、人格的存在の感情や気まぐれによることなく、機械的に働いている不変の法則によって自然の運行が決定されていると考える科学および呪術とは、本質的に対立しているのである。(中略)つまり宗教がするようにそれを宥和したり慰撫したりしないで、呪術はそれを強制したり脅迫したりするのである。(p131)

ここまでくると、フレーザーが何にこだわっているか、分かってくる。
彼にとって宗教は、人を依存的・従属的な存在にしてしまう機構のようなものである。それは現実的には、「神」の存在を利用する教会権力のようなものと考えられよう。人々を従順な羊と化することで、生命の力を抑圧し、牧者の如き権力を確立する者たちの存在だ。
フレーザーは、その抑圧を振り払うものとして、呪術のポテンシャルを支配的な宗教的世界の根底に見出そうとする。それはやはり、ニーチェフロイト、ロレンスらに似た思想のあり方だと言えるだろう。

人類社会の表面の下にかくれ、宗教と文化の皮相的な差異にわずらわされることのないこの堅固な未開社会の基盤の恒久的存在が、人類の将来に果してどんな関係をもつことになるかは、われわれの当面の研究の範囲外に属する。研究の結果その深さを測り知ることを得た観察者は、それが文化の発展に対する深刻な脅威であることを認めざるを得ないであろう。われわれは地下に眠っているこの力によっていつ何時大爆発を起こすかも知れない不安定な地盤の上に住んでいるようなものである。(p139〜140)

フレーザーは、このように警鐘を鳴らしているけれども、同時に、この「脅威」に心惹かれ、何事かを待望していることも確かなのだ。
そのことは、これに先立つ第三章「共感呪術」の最後の部分を読めば、よく分かる。
ここでは、理念を廃棄した「技術至上主義」的な呪術社会のなれの果てともいえる、大呪術師による詐術的な強権掌握の事実が歴史の中にあったであろうことが想定されながら、次のようにその成り行きが正当化されるのだ。

結局のところ、最善に意味においての自由―われわれ自身の思想をつくり、われわれ自身の運命を形成する自由―は、生まれてから死ぬまで個々人の運命が伝統的慣習の鉄の鋳型にたたき込まれている未開生活の表面的自由のうちよりも、むしろ最も徹底した専制主義および最も残虐な圧政のうちに、より多く存在するからである。
 それゆえ、呪術の公的行使は最も卓越した人々をして至上権の座につかしめる手段である限りにおいて、伝統の鉄槌から人類を解放し、彼らをより大きくより自由な生活にまで引き上げて世界に対するよりいっそう広い視野を与えることに貢献するところがあった。(p124〜125)

これは、ニーチェと同様の思想だが、現実の政治権力によって利用される余地を大きく有したものであったことは、20世紀の(そしてまた、現代の)歴史をみるなら明らかだろう。