『太平記<よみ>の可能性』

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)


著者の歴史に対する根本的な見方は、歴史とは過去の出来事そのものによってではなく、その出来事について語られる言葉(言説)によって作られていくものだ、ということのようである。
太平記』というフィクションをどう解釈し受容するかという言説上の積み重ねが、やがて近代国家から現代へと至る、日本の現実の歴史というものを作り上げてきた。
物語(言説)こそが現実の歴史を作るという歴史観が、ここにはある。
無論、実際には、過去の出来事としての歴史は、言説の次元だけで構成されるわけではない。たとえば、著者は幾度も『太平記』の意味が「読みかえられた」といったことを書いているが、そうした「読みかえ」がなぜ生じたのかは、言説の内部だけで説明することは不可能である。政治権力の変容とか、黒船の到来といったことは、事実であって言説ではない。
近年の例にならって、「事実」という概念の範疇に、広く「言説」の要素まで含めるのは妥当だとしても、言説の外部をまったく捨象して歴史を考えることはナンセンスであろう。
だが、肝心なことは、そこにはない。
問題は、過去としての歴史ではなく、現在や未来の歴史が何によって作られていくか、ということだ。ここでももちろん、言説以外(つまり狭義の物質性)の次元は重大であるが、同時に「言説が歴史を作る」という事実から目を背けることも許されないのだ。
明治の歴史学界において、『太平記』の読みに関わる南北朝時代皇国史観的理解が虚構(トンデモ)に過ぎないことを実証的に批判した田中義成などの歴史学者の言説が、国家権力をバックにした官民のイデオローグたちの攻撃と弾圧とによって駆逐されていった経緯を踏まえて、著者はこう書いている。

田中の議論を水準とした近代の南北朝史研究は、天皇制のフィクショナルな枠組みを相対化できないままに、やがては昭和の皇国史観に手もなくからめとられていくだろう。「南北朝時代史」とは、過去の事実である以前に、日本歴史をなりたたせた物語的な枠組みの問題である。くりかえしいえば、日本の近世・近代の天皇制は、太平記<世界>というフィクションのうえに成立する。たしかに歴史とは物語であり、物語として共有される歴史が、あらたな現実の物語をつむぎだしている。(p248)

このような著者の「物語」に反論することは難しい。
それは、「正しい歴史」が何であるかは、政治的な問題としては、やはり現実の言論闘争(歴史戦?)によって決定されることがほとんどであったという事実を、認めないわけにはいかないからである。
過去の事実を否定する「歴史(物語)」が支配的になりつつある時代に、歴史に関心を持つ者は自然科学者のように「それでも地球は回っている」と呟いてすませるわけにはいかないだろう。


さて、著者は上記のように、明治国家(それは、安倍極右政権下の今の日本に直接つながっていると思われるが)に至る「日本」という現実の枠組みを形成してきた最重要の「物語」として、『太平記』とそれをめぐる多様な「よみ」の蓄積を捉えている。
「よみ」というのは、「太平記」がたんに文字による「正典」といったものではなく、さまざまな異本や解釈(読み)の変遷を含み、また音読や語り物、音曲といった、非文字的な要素(詠み)も含んで伝承されてきた物だ、という意味である。
著者は、こうしたものとしての「太平記」の思想を、二つの層の交錯として見いだしている。一つは、「平家物語」と同様の、天皇に特権的に仕える「武臣」(エスタブリッシュメント)である源平両氏による権力交替の正当化の言説ということだが、「太平記」においては、それをイデオロギー的に支えているのは宋学朱子学)の名分論ということになる。
それは『神皇正統記』にも共通するものだが、その特徴は、道義の名の下に天皇の交替さえ正当化される、という点にある。

太平記にとって理想の世(太平)は、けっして「武臣」を排した天皇親政の世ではなかった。源平の「武臣」交替史が、武家政権を正当化(あるいは既成事実化)する枠組みとして機能するのだが、そのような源平交替史を可能にしているのが、不徳の天皇の交替を是認する太平記序文の名分論であった。(p44)

しかし家職や種姓の条件つきではあっても、太平記天皇の名分に言及したことの意味は重大である。「徳」なるものの評価に絶対的な規準が存在しない以上、帝徳に言及する名分論は、天皇の廃立にかんするどのような便宜的・ご都合主義的な解釈も可能にするはずだからである。(p49)

こうした意味での「名分論」は、『神皇正統記』や、それとは対立する立場だったはずの足利政権のみならず、徳川武家政権の代表的知識人だった新井白石や、さらには吉田松陰など「維新の志士」たちにも継承されていくのである。
著者は、後の方で、これを「プラグマティックな名分論」と呼んでいるが、吉田松陰の弟子である長州の政治家たち、木戸孝允伊藤博文の振る舞い(それらはしばしば、ファナティックな天皇主義者の非難の的になった)を見れば、それもうなづかれるだろう。
ちなみに、戦後日本を代表する反エスタブリッシュメントの右翼論客である小室直樹の本によれば、興亜主義者だった安重根は、伊藤博文を暗殺した理由の一つに、伊藤の同志である岩倉具視孝明天皇を毒殺して「維新」の実現を図った不忠をあげているというが、その謀略が事実だとしても、それはこの「名分論」の理にかなったものであったということかもしれない。


さて、以上のような、「武臣」交替とその権力保持の正当化のイデオロギーという層に対して、著者は、「太平記」のなかに見出されるもう一つの層の方に、より大きな関心を向けている。それは、物語においては、楠正成の描かれ方に代表される、「武臣」(特権階級)ならざる、周縁的・アウトロー的な集団の物語であり、いわば「血の盟約」と暴力によって直接に天皇とつながろうとする者たちの論理とパトスである。
むしろ、表面では見えにくい、底流のようなこちらの層の方が、近代日本に向う歴史の流れをより強く規定してきたもの、少なくとも、民衆(やがて国民となる)のエートスの部分に深く関わるものだったのではないかと、著者は論じるのである。

天皇と「武臣」という二極関係で構成された近世国家の物語的な枠組みじたいが、その対立項ないしは補完物として、くりかえし「忠臣」正成をよびおこしていたのである。(p17)

幕末の脱藩浪人たちの討幕運動とは、制度の枠組みをこえて「日本」という普遍的レベルのモラルにむすびつく運動であった。そして君臣上下の枠組みをとび超えて天皇に直結することが、既存の法制度を相対化するもっとも有効な論理であったとすれば、それは戦前の右翼にも、また尊王愛国を標榜する現代の暴力的なアウトロー集団にもつうじる行動の日本的エートスである。(中略)かれらのアジテートする、もうひとつの天皇の物語は、その延長上に日本近代の「国民」概念さえ先取りしていたはずである。(同上)

このことは、イデオロギー的には、江戸後期の水戸学において、上記の「プラグマティックな名分論」と区別される、「絶対的な名分論」という形態をとって現われるものにつながっている。
それは、エスタブリッシュメントとしての「武臣」の支配を相対化し、揺るがすものとしての、民衆やアウトローたちの王権(天皇)への絶対的かつ直接的服属の情念の論理化であり、この思想はやがて、「国体」の観念へと結晶化する。

正閏論や正統論の相対性を超えた、ある絶対的な名分論のテーマが必要とされるわけで、そこに浮上してくるのが、いわゆる「国体」の観念であった。(p215)

「国体」の絶対性のまえでは、足利氏はもちろん、徳川氏の名分さえ相対化される。天皇を唯一絶対の例外者として位置づける(つまり名分論の埒外におく)ことで、既存の武家社会のヒエラルキーが根底から相対化されてゆく。おそらくそこからは、武家政権の存在そのものを止揚した、ある新しい国家像さえイメージされるはずである。(p223)

そして、著者は、こうした「国体」の観念に集約されていると考えられる、特権層の支配を否定する、天皇への直接的服属の情念を、明治の国民国家の理念に結びつけて捉えようとするのである。

たとえば明治以降、「四民平等」の国民国家への変貌があれほど速やかに達成できた背景には、水戸学によって鼓吹された「国体」の観念が存在しただろう。(p225)

教育勅語の一節を引いて、著者はさらに述べる。

ここでいわれる「臣民」は、四民(士農工商)すべてを、ひとしく天皇につかえる「臣」として位置づける国体論のタームである。水戸学の国体論が、ほんらい幕藩国家のアンチテーゼとして発想された、ある種の「平等」「解放」の思想であったことは前章に述べた。
 しかし維新後に成立した現実の天皇制国家のなかで、「国体」「臣民」のキーワードは、国民大衆を規定する制度上のタームとして読みかえられてゆく。(中略)
 大衆(民)を天皇に直結させる大義名分の思想が、国家が大衆を直接的に(無媒介的に)把握する思想として読みかえられたのである。(p229)

このような国家による大衆の直接的把握を可能にしたものこそ、「天皇の赤子」という言葉に象徴されるような、天皇への直結を、アウトローや芸能民・職人などの民衆社会に広くみられる疑似血縁的な組織(戦後社会においては、「会社」もそれに類するだろう)への帰属意識と重ね合わせることで、支配的秩序からの「解放」を実現しようとする、「行動の日本的エートス」に他ならないのだと、著者は述べている。
つまり一言でいえば、「臣民」であることによる、「解放」と「平等」。それこそが、近代日本という国民国家の、心情的実態だったということになろう。


こうした著者の視点は、現在につながる近代(国民)国家の、前近代から連続する実質を見据えるためには、きわめて示唆に富んだものだと思う。この国民国家は、実質的には「臣民国家」の性格を色濃く持ちながら推移してきたのである。
柄谷行人は、『遊動論』の中で、「遊動性」の二つの形態を区別し、本書で著者の兵藤が論じているような(また、後白河や後醍醐を支えたとされるような)、アウトローや芸能民などの集団が持つ遊動性が、実際には「武臣」たちの権力と同様に国家的な装置の枠内にとどまるものであり、国家に対するアンチテーゼにはなりえない種類のものだということを強調している。
実際、「臣民」の論理は、明治国家を補完し、それを背後から支えたものであって、いかなる意味でもそれを解体する契機は持たなかったと、考えるべきだろう。
「臣民」が、国家の論理に抗える可能性など、露ほどもない。
だいいち、「臣民」とは、なによりも権威に服従する者であり、しかもこの権威は、閉じられた共同体の内部でしか通用しない権威なのである。
この共同体が、何らかの「外部」に直面する脅威にさらされたとき、この権威にとりすがろうとする行為は、支配秩序への抵抗という以上に、排他的な退行という性格を持たざるをえないだろう。
著者が言うように、民衆の「行動のエートス」に訴えかけることでしか、社会を良い方向に変えていくこと、また国家の暴力を阻止していくことが出来ないとしても、そのエートスは、真に平等で開かれた社会のそれでなければならないはずである。


しかし、何より私は、この本での著者の記述が、日本という国民国家と民衆(大衆)社会との根底に潜む情念が、暴力的で右翼的・国家的(それは、国家権力を補完する性格のものだということを、先に述べた)なものであることを示唆していることに関心をひかれる。
初めの方で、『太平記』に描かれた、楠一族の討ち死にの場面について書かれている。

あるいはまた、太平記できわめて同情的に描かれる楠父子の最期である。湊川合戦で、正成は弟の正季と「手に手をとり組み、刺しちがへ」(古本系)て自害する。おなじく正行も、四条畷合戦で弟の正時と刺しちがえて自害する。そして正成・正季兄弟に殉じて一族郎等数十名が「一度に腹を切」ったように、正行・正時兄弟が自害した折も、数十名の一族郎等が「腹かき切つて、上が上に重なり臥」している。(p13)

著者は、長い歴史を通して語り継がれてきたこの場面に、天皇への忠誠とも関わって、近代日本国家につながっていく、生々しい「血の盟約」のようなものを感じとっているのだが、私はここを読んだとき、先に岡本恵徳の文章で読んだ、渡嘉敷島など沖縄での集団自決の場面を思い出さないではいられなかった。
これが近現代へとつながる日本人の「行動のエートス」だとすれば、その暴力性を、まともに背負わされ(内面化させられ)て死んで行ったのは、沖縄など、日本の国民に支配された民衆たちだったのではないか?
いまだに、日本の右翼が「沖縄」に特殊な執着を示しているように思えるのも、そのことと関係しているのかもしれない。


最後に、もうひとつだけ付け加えておこう。
先に述べたように、著者が「プラグマティックな名分論」と呼ぶ、『神皇正統記』や「太平記」の公式的理解に代表されるような、「徳」の有無によって天皇を交替させても良いとするような「道徳的」(宋学的)な思想は、実際には、『天皇の廃立にかんするどのような便宜的・ご都合主義的な解釈も可能にする』ものであったと、著者は指摘する。
だとすると、そうした「プラグマティックな」権力観というものが、日本においては必ずしも、絶対的名分論(国体思想)の観念性に対置されうるような「現実的な態度」を意味しなかったということを、押さえておく必要があると思うのである。
それはむしろ、「どのような解釈も可能」という機会主義、あるいは政治的シニスムの様相を呈することで、国体思想がそうであったような、暴力性(死の欲動)へのアンモラルな転落に近づく(現在に継承された「長州の政治」には、そういう傾向が如実に表れていると思える)。
つまり、政治的現実に対する「プラグマティックな」姿勢は、ただそれだけでは、本書で示唆されているような日本の精神的土壌において、国家権力による「死への誘い」に抵抗する光源とはなりえないものだと、いえるのではなかろうか。
私が、鶴見俊輔氏や藤田省三氏の業績に対して深い敬意を抱きつつも、どうにも共感しきれないものを感じてきた理由に、おぼろげながら気づくことが出来たことも、本書から得た恵沢のひとつであったと思う。