基礎的な科学と人間の社会

日本出身の科学者たちがノーベル賞をもらったことを期に、日本でも基礎科学の研究の価値が見直されるようであってほしい、という論調はよく聞く。



何の役に立つのかがすぐには分かりにくく、成果のはっきりするまでに時間のかかる基礎科学(実験・研究にせよ理論にせよ)が軽視され、すぐに結果や技術的・経済的な価値につながる研究分野だけが優遇されるという状況は、たしかに学問にとって望ましくないだろうから、そのように期待する気持ちはよく分かる。
だが、報道を見ていると、こうした基礎的な研究の価値は、「一見非合理で無駄なことのように思えても、そうしたものこそ技術革新の経済的価値の創出につながるのだ」という趣旨で主張されている。
つまりこれは、一見無価値に思えるけど、じつは国益なり企業の利益なり、広く社会的な価値の生産につながるのですよ、という擁護論だ。
だから、基礎科学に予算を投じたり環境を整えることは、決して無駄ではない、という話である。


だが、こうした基礎的な研究の価値を認めて助成していくことの価値は、そのような実利的な理由に尽くされるものだろうか。そのようにのみ語られてよいものだろうか。
今回受賞された方々の話を聞いたり、読んだりして印象的だったのは、純粋な理論的な関心であったり、純粋な研究対象に対する興味、情熱が、その偉大な研究の内実だった、ということである。
つまり、何かの役に立つかどうかということとは無縁に、これらの人々(科学者)の学問・対象への情熱こそが、これらの研究を可能にした。


学問の真理は、それが自然界のなかに漠然と存在しているから発見されるというものではないだろう。それは、それを発見する人間(科学者・研究者)の心性、心のあり方と深く関わっているのだと思う。
膨大な時間をかけて広大な世界(宇宙)についての予想、思索をめぐらしたり、クラゲがなぜ光るかという謎に魅了されて、数十年間寝食を忘れて没頭したり、そういう非合理な情熱のようなものが、人間が発見し、発展させてきた科学という営みの、ほんとうの基礎であるはずだ。


科学の発達の基礎をなすものは、この人間の営みや、多くは非合理でもあるその情熱であり、実利性や目的がはっきりしない基礎科学(基礎的な研究・理論)を大事にするということは、科学を支えているこの人間というものの非合理的でもある本性を肯定し大切にする、ということである。


こうした科学の分野が、社会的に認知され制度的にも保障されるべきであるのは、根本的には、それが国益とか経済的・技術的な実利に結びつくからではない。
それは、こうした分野を是認する社会とは、人間が非合理な存在であるという事実を否認しない社会であり、人間のそのような本性(と自然や対象との持続的関係)に対してと同時に、そのような意味での「人間の営み」としての科学なるものに対して、擁護的な社会だといえるからである。
この社会は恐らく、「科学的」とか「(科学的)合理性」の名のもとになされるような非合理性の暴走に対しても正しく批判的でありうるような社会であるだろう。
役に立つかどうか分からぬものに熱中する人間の心と営みを、科学や学問・文化の根底をなすものとして認知していく社会、それはみずからの「合理性」がはらみうる暴力性に、もっともよく抵抗しうる社会なのだ。