カッシーラー「神話的思考」


岩波文庫から出ているカッシーラーの『シンボル形式の哲学』。四巻組だが、第一巻の「言語」から順に読んでいっている。
第二巻の「神話的思考」を読み始めたのは、ちょうど中東でISによる日本人人質事件が起きて、安倍政権の対応にも注目が集まってる頃だったが、書いてあることがたいへんビビッドに感じられた。
簡単に数か所だけ紹介したい。


はじめの方で、神話的・呪術的な思考の特徴について、次のように書いてある。

神話はもっぱらその客観の現前のうちに、ある瞬間にその客観が意識をとらえてこれを占有する強烈さのうちに生きているのである。したがって、そこには瞬間をそれ自身を越えて押し拡げ、その前後に目をやり、その瞬間を一つの特殊として現実の要素全体に関係づけるという可能性はない。現に与えられている特殊なものはすべて、それを他の特殊と結びつけ、他のものとともに系列化し、このようにしてついには出来事の普遍的な法則性に組み入れるための単なる機縁にすぎない、と見るような思考の弁証法的運動はここにはなく、あるのは印象そのものへの、その時どきの印象の「現在」への単なる献身である。意識はただ現にそこにあるものとしての印象にとらわれており、そこには、今ここに与えられているものを修正し、批判し、今与えられていない過去のものや未来のものに照らしてそれを測ることによって、それをその客観性に限定しようとする衝動も可能性もない。だが、このような媒介となるべき尺度が欠けており、あらゆる存在、あらゆる「真理」、あらゆる現実が内容の単なる現在に解消されるとすれば、それとともに必然的に、あらゆる現象するすべてのものがただ一つの平面に密集してしまうことになる。そこには実在性のさまざまな段階もなければ、客観的確実性のたがいに区別される段階もないことになる。このようにして生まれてくる実在像にはいわば奥行きが欠けており―経験‐科学的概念において「根拠」と「根拠づけられるもの」の分離としてきわめて特徴的な仕方でおこなわれる前景と後景の区別が欠けているのである。(p87〜88)

もし神話的意識の内容を外から反省するだけではなく、内からも理解しようとするならば、われわれは、経験的思考と批判的悟性が区別するさまざまな客観化の段階すべてのこうした未分化状態、こうした独特な混合状態を、つねに眼前に見すえていなければならない。(p91)

瞬間的な思考の支配ということは、日本に限らず、インターネットに代表される現代の社会を特徴づけるものだろう。
ISの手法は、まさにこの大きな流れの産物であるともいえるわけだが、それが生まれ、力を持つのは、「われわれの社会」自体がすでに「瞬間の支配」、つまり神話的・呪術的な思考の力に飲み込まれてしまっているからである。もちろん、安倍政権や自民党は、その利用の最たるものであるが、利用されているわれわれの側にも責任があることは言うまでもない。
カッシーラーのいう「独特な混合状態」を見すえるということは、各自にとって内省的な課題でもあるはずだ。


ところで、今回の人質事件にあたって安倍政権が示した対応は、私には文字通り「呪術的」としか思えないものだった。
首相をはじめとする政治家や官僚は、少なくとも表向きには、何らの現実的な働きかけや方策をとることもなく、ただ事態の解決を祈念したり、悪行を行った敵を攻撃的言辞によって呪詛したり、「有志国連合」の絆の強さを言挙げすることにばかり熱心だったからである。
彼らにとっての現実世界とは、実際の外交交渉よりも、祈念や呪詛が断然強いリアリティーを持つ領域なのだとしか考えられない。
それは、太平洋戦争当時の日本を彷彿とさせる光景でもあった。
呪術的思考について、次のように述べられている。

こうして、呪術的世界観においては、自我が現実に対してほとんど無制限な支配権を行使し、自我はすべての現実をおのれのうちに回収してしまう。だが、まさしくこの直接的な一‐体‐化にこそ、根源的関係が逆転することになる独自の弁証法もふくまれているのである。呪術的な世界観にあらわれているように思われる高揚された自我感情は、他面において、まさしくそれが真の自己になっていないということをも示しているのだ。自我は呪術的に万能な意志の力で事物を捉え、それを思いどおりにしようとする。だが、まさしくこの企てのうちで、自我が事物によってまだ完全に支配されており、まだ完全に「とりつかれて」いることが明らかになる。自我の行為と思われているものでさえも、今や自我にとって苦痛の一つの源となる。ここでは、言葉の力や語る力のような、自我の観念的な諸力でさえも、すべて悪霊的存在という形で捉えられ、自我とは無縁なものとして外部へ投射される。(中略)したがって、まさしく自我感情の増大した強度や、またそこからくる活動の肥大のうちで生みだされるのは、活動の幻影にすぎない。なぜなら、およそ活動の真の自由とは、ある内的な拘束を前提にし、活動の明確な客観的限界の承認を前提にするものだからである。自我がおのれ自身に到達するのは、おのれにこういった限界を設定し、はじめは事物の世界に帰していた無条件の因果性を次第に制限してゆくことによってでしかない。情動や意志が、もはや望まれた対象を直接捉えたり、おのれの圏域に引きこもうとしたりするのをやめ、単なる願望とその目標とのあいだに、次第に明確さの度合を高めて把握される中間項が入りこむことによって、一方では客体が、他方では自我がはじめて自立した固有の価値を獲得する。(p299〜300)

日本の政治・社会が、大きな外的危機に直面すると、結局は呪術的思考の中へと流れ込んでしまうのは、それが天皇制という呪術と相性のよい機構を精神的な核にしている以上は不可避のことだとも思える(日本では宗教が胡散臭いものとしてよくdisられるが、あれは合理主義や近代主義の立場からのように見えて、実際には呪術、つまり前宗教的な心性によるものなのだろう)。戦前において、天皇の呪術的性格を、もっともよく内在的に捉え、それゆえに恐らく加担もしたであろうと思われるのは、やはり折口信夫だ。
だが、カッシーラーが呪術的世界観の特徴であるという高揚・増大した「自我感情」(全能感)が、現実の障壁に直面して己の限界を承認し、真に外部へと現実的な働きかけを行いうる論理的思考へと展開する契機は、ネット化されて閉じられた現在の社会では、戦前以上に見出しにくくなっているのではないかと思う。
とりわけ日本の政治家や官僚たちは、『呪術的に万能な意志の力で』現実を支配できると思っているのであろう。それは彼らにとっては、政治的現実というもののあり方が、もはや交渉や民主的な手続きによって変更されるような対象ではなく、「万能な意志の力」に無条件に服するべき事象としか考えられていないからである。それに服さない者は、理解しがたい惑乱的な他者、すなわち「テロリスト」(あるいは「非国民」)と見なされるのだろう。
つまり彼らは、ネット社会の(また相変わらず天皇制国家の)神話的思考の中に住んでいるのだ。


とはいえ、カッシーラーはこの本の中で、神話的思考を単純に克服するべき対象として論じているわけではない(その点が、カッシーラーという思想家への評価を両義的なものにしている由縁の一つだろう)。
後半では、神話的思考は、宗教や哲学が有する理念化の傾向と対置される。この傾向は、やがて近代科学を生み出すに至るものでもあるが、そこには神話的思考には見られない独自な危険性がはらまれていることも指摘されているのだ。
宗教という語が、ここでは神話を否定し克服するものとして、哲学や近代科学に通じる理念的(形而上的)な性格を持つものとして語られていることに注意して、以下の引用を読んでほしい。

したがって、宗教の理念性は、神話的な諸形象と諸力の全体を低次の秩序に属する存在に貶めるだけではなく、こういったかたちの否定を、感性的‐自然的存在の諸要素そのものにも向けるのである。(p446)

すべての存在――事物の存在も自我の存在も、内的世界の存在も外的世界の存在も――がその存立と意味をもつのは、この存在が宗教的過程とその中心とに関わりをもつそのかぎりにおいてなのだ、というこのことこそが宗教的思考の特性を示すものなのである。つまり、根本的には、この宗教的過程の中心だけが唯一の実在であって、他のいっさいのものはまったくの虚妄であるか、あるいはこの過程のなかの契機として派生的な存在、第二の秩序に属する存在をもつにすぎないか、そのいずれかなのである。(p457)

つまり、カッシーラーはここでは、宗教や近代科学に見られるような、「理念」による断定と切捨ての暴力性を有しないものとして、神話の機能を肯定的に捉えているとも考えられる(カッシーラーがここで言っている「理念」的な宗教というのは、いわゆる一神教だけでなく仏教なども含まれている)。
この意味では、神話(呪術)的思考は、いわば好い意味で「ゆるい」のだ。


だが、その反面で、神話(呪術)的思考には、それ独自の大きな危険がはらまれていることも事実であり、私はその側面に、より強い関心を抱く。
神話的思考と理論的思考との違いについて、カッシーラーは次のように明快に述べている。

理論的思考は、それによって特定の綜合的結合にもたらされる諸項を、まさしくそのように結合されてはいてもそれぞれ自立した要素として保持し、それらを相互に関係づけながらも同時に分離し区別するのに対して、神話的思考にあっては、相互に関係づけられたもの、まるである呪術的な絆で一つにされたかのようにみなされるものは、無差別な一つの形象に溶けあってしまう。(p342)

神話的思考は、呪術的にイメージされた茫洋たる全体のなかにすべての差異を飲み込んでしまう。そこでは、いかなる分離も、結局は認められないことになる。
この点は、私たちにとって特に大事だと思うので、関連すると思う箇所を最後に引いておきたい。以下では、「宗教哲学的」という言葉が、「神話的」と対置され、理論的・弁証法的という意味合いで用いられている。

宗教哲学的見方は、神と人間との一体性を実体的なものとしてではなく、むしろ真の綜合的統一として、つまり異なるものの統一として考える。したがって、そこでは依然として分離が不可欠の動機であり、一体化達成のための条件である。(中略)この、神と人間との「融合」を却けることによって、弁証法的思想家であるプラトンは、神話も神秘思想もおこないえない厳しい切断を果たしたのである。(中略)ここで告知されているのは、(中略)神話を原理的に越え出るよう指示しているある新たな思考形式である。(p465〜466)

カッシーラーによれば、プラトンにおいてもヘーゲルにおいても、弁証法的思考とは、分離をその不可欠の契機とし、条件とするような綜合の働きのことである。
宗教哲学的」(また理論的・弁証法的な)思考というものは、神話的思考と違って、「分離」を認めることを不可欠の前提とするのだ。
分離というと、アパルトヘイトや、イスラエル分離壁を思い浮かべるだろうが、ああしたものは、むしろ分離の否認であり、つまり同質的な一体性(「絆」)の幻想にしがみつこうとする神話的思考の現われなのである。
カッシーラーがここでいう「分離」というのは、閉鎖的な共同体や、国家主義、さらには国家の枠を越えた全体主義的な秩序への志向といったものからの分離、独立、異議申し立てのことだ。
そうした要素を、同質性や一体性を揺るがすようなものとして、あらかじめ隔離したり排除したりするところに、真の綜合は成り立ちえないということ、つまり(ヘーゲルの用語を使うなら)「和解」とか共同性は、現実のものとしては成立しえない、ということである。
異質なもの、目障りなものの排除によって形成されるような共同性は、国家内的なものであっても、外的(国際的)なものであっても、悪しき神話的・呪術的思考が生み出した幻想以外の何ものでもない。
厳しい「分離」(差異・対立)の現実があることを明確にし、そうすることで他者に対する責任をしっかりと自覚し、認めたうえで、「綜合」への道を模索していく。それこそが、真の「和解」につながる行為であり、呪術的思考からの脱却ということなのだ。